43_かつての約束(2)(ノア視点)
ノアはイーリカの手を取り、ぎゅっと握った。
あの頃、何度も握ったイーリカの小さな手のひらを思い出し、胸が締めつけられた。
(なぜ、忘れてしまっていたんだ──。こんなにも大切な約束だったのに、絶対に、と誓ったのに──)
ノアは記憶を取り戻してから、何度目かしれない唇を噛み締めた。
* * *
約一か月前、イーリカを無事救い出したあとで、突如倒れてしまったノアだったが、数日後に目が覚めると、なぜか幼い頃の空白だった記憶が戻っていた。
今思い出しても、とても不思議な感覚だった。
すべてが鮮明で、こんなにも深く長く眠ったのはいつぶりだろうと感じるほど満たされていた。
と同時に、信じていた兄に裏切られ、心を病んだ兄が自殺してしまった悲しみに襲われた。
そして幼い頃イーリカと交わした約束を思い出し、絶望に駆られた。
──幼いイーリカと別れてから、すでに七年が経っていた。
成長したイーリカと再会を果たしていたにもかかわらず、何も覚えていないノアは初対面の顔でイーリカに接していたのだ。
絶対に会いにくると言ったくせに、何年経っても会いにこない。
そのうえ不眠症の悩みを抱えたからと、素知らぬ顔で一方的に救いの手を求める。
どこからどうみても、イーリカにすれば印象は最悪でしかない。ノアは頭を抱えた。
それに再会してからのイーリカの態度を振り返ってみたとき、ノアの中でも疑問が浮かんだ。
(イーリカはあのとき助けた少年が、僕だと気づいていない……?)
その可能性もあり得た。
ノアのアイスブルーの瞳と淡い金髪は幼い頃から変わっていないが、それだけで見極められるほど特別でもない。背は伸びて、体格もずいぶん変わった。それに当時とっさに執事の『ヘンリー』という偽名を名乗ってしまったことも気がかりだった。
(せめて『ノア』と名乗っていれば……)
今さらながら過去の自分を悔やんだ。
(でももしも気づいているなら……? 再会後、僕の素知らぬ態度が原因で、イーリカはあえて僕に過去を告げない決意をして初対面を貫いてくれているのか……?)
そこで、はたと思い出す。
『この黒い森で、わたし達に出会ったことは知られてはいけないから』
(──そうだ、七年前、記憶を失う間際に僕が耳にしたのは、そうつぶやくイーリカの声だった)
つまり、あの黒い森にイーリカや母親のカミラがいたことは秘密にしなければならない事柄だった。だからこそ森の外から来たノアに漏れることは避けなければならず、何らかの方法で仕方なく記憶を消させた。
そして黒い森に存在し、人間には到底不可能な記憶を消すような方法を知っている人物──、それは『黒い森の魔女』をおいてほかにいない。
(もしそうなら、イーリカは魔女の秘密が漏れることを恐れて、僕に過去のことを打ち明けられないのか──?)
ただその場合、新たな疑問が生まれる。
それはイーリカの態度だった。
あえて過去のことを触れないでいるにしては、ノアがイーリカに幼い頃に誘拐された話をしたとき、彼女はまるでそのことを初めて聞いたかのような反応をしていた。
確かに誘拐されたことは、幼い頃のイーリカに話したことはなかった。でもイーリカたちに助けられたときにノアがけがをしていたことを思えば、何かしら反応を示してもいいはずだった。
『あなたが無事に戻ってこられて、本当によかった……』
あの日、誘拐事件のことを打ち明けたとき、そう言って黒水晶の灰褐色の瞳を大きく揺らした中には演技や嘘はわずかも見当たらなかった。
ノアは淡い金髪に指をうずめ、息を漏らす。
これ以上、ひとりで複雑に絡み合う事柄の答えを探すのは難しいように思えた。
(いずれにしても、まず僕がすべきことは──)
──黒い森へ行って、幼い頃のイーリカとの約束を叶える。
そこでイーリカが魔女だと知っていることを告げ、仕方なかったとはいえ、やはりなぜ記憶を消したのか、再会したあとなぜ教えてくれなかったのか。
その真実を彼女の口から聞きたい。そしてもう一度きちんと話しがしたい、そう思った。
若い娘が行方不明になる事件やイーリカ誘拐など、一連の事件がひと区切りついたら、黒い森へ行く。そうノアは決めた。
そしてようやく、あとは王家の判断を待つだけとなり、ちょうど迎えた満月の夜、ノアは黒い森に足を踏み入れ、運よく魔女の小屋までたどり着くことができたのだったが──。
* * *
ノアはイーリカを見つめる。つないだ手のぬくもりを確かめるようにぎゅっと力を込める。
ぴくりとイーリカが反応する。
それでも手を振り解いたり、いやがられたりしていないことに、少なからずノアはほっとする。
依然としてイーリカは戸惑うように瞳をさまよわせていた。
それは事実を告げることをためらうそぶりではなく、何も知らない者が返答に窮する様子に近かった。
その態度に、ノアは一抹の不安を感じ始める。
いや、ずっと不安に思っていた。でもその可能性は考えたくなかった。
だからこそそれを振り払うように、ノアが次の言葉を発しようとした。そのとき──。
「おいっ! 何でお前がここにいるんだ⁉︎」
「ちょっと! 何やってるのよ⁉︎」
扉から勢いよく飛び込んできたのは、ライトとラブラだった。
ライトの毛には水滴がついていて、ぽたぽたと床を濡らしている。
イーリカは弾かれるように、ノアに握られていた自分の手を急いで引っ込めた。
ノアは深く息を吐き出し、先ほどから鋭い視線を向けている二匹を振り返る。
「やあ、もう少し水浴びしてきてくれてもよかったけど」
ライトの体から落ちる水滴に目をやり、あえて何食わぬ顔で言う。
それに対してライトは毛を逆立てて、
「水浴びだと⁉︎ 犬がするみたいな言い方するな!」
声を荒げる。ブルブルッと身を震わせ、水滴を払うと、
「それよりも、ここに来たってことは、まさか思い出したのか──⁉︎」
ノアはおや? とわずかに眉を動かしたが、すぐに平静さを装うとわざとらしく肩をすくめて微笑んでみせる。
「さあ、どうだろう?」
「何だとー⁉︎ げんこつをお見舞いして記憶を飛ばしてやる!」
「やめなさいよ! イーリカの前よ!」
ライトがたまらず飛びかかろうとしたところ、ラブラの叱責が飛ぶ。
ライトが勢いよくイーリカに目を向ける。
イーリカは薄く唇を開け、立ち尽くしていた。
「……思い出したってなんのこと?」
イーリカは不安な面持ちで、ライトとラブラに視線を向けて訊ねる。
ライトはたまらず視線をそらす。
重苦しい沈黙が質素な小屋の中に垂れ込めていた。
ノアはイーリカに目を向ける。
まぶたの裏には幼い頃のイーリカの笑顔が鮮やかに浮かぶのに、目の前のイーリカは戸惑いに瞳をさまよわせるばかりだった。
ノアの視界を覆う不安の影は、ぬぐい去れないほど色濃くなっていた。
(まさか──、そんなはず──)
感情を押し殺すようにライトとラブラを見た。
「……ひとつ訊きたい」
ノアは重苦しく口を開く。
ライトとラブラが、ぴくっと耳を動かす。
(……あくまで不安を打ち消すためだ)
自分に言い聞かせる。
それなのに言いようのないほどの恐れと不安が心の中に吹き荒れる。
乾いた喉を震わせて、ノアはひとりごとのようにつぶやいた。
「……もしかして、覚えていないのか」
(──イーリカは、もしかして、覚えていないのか?)
その瞬間、沈黙が目に見えて重たくなった気がした。
ややあって、ライトとラブラは一瞬だけイーリカに目をやり、そのあとでノアに向き直ると静かに頷く。
これが現実だと、ノアに突きつけるかのように──。
「どうして……」
ノアの口から吐き出すような言葉が漏れる。
膝から崩れ落ちそうな感覚が彼を襲う。
黒い森の中、この小屋でイーリカと過ごしたことは、ノアにとってかけがえのない大切な思い出だった。たとえ何があっても本当なら忘れたくなかった。
そしてそれはイーリカも同じだと、そう思い込んでいた。
(どうして──)
自分だって忘れていたくせに、ノアの頭の中はどうしてという言葉しか浮かばない。
ノアは再びイーリカに視線を向ける。
イーリカは、ノアの痛みがまるで自分のことのように苦しみの表情を浮かべ、立ち尽くしていた。
重苦しい空気の中、ゆっくりと進み出たのはラブラで、イーリカとノアの間をふさぐような位置に陣取る。
ノアに鼻先を向け、言葉を投げかける。
「……わかったでしょ、そのことを今さら責めないでちょうだい、お願いよ」
「そうだ、どのみちあんたはまた忘れることになるんだ。これ以上、どうにもならない」
その言葉にノアは苦々しげに顔を歪め、思わずライトとラブラをにらみつける。
ライトの言葉の意味は明白だった。
「また僕の記憶を奪うつもりか」
ノアは吐き出す。
しかし二匹は怯まない。
「秘密は守らなきゃならない。そのために俺たちはいる」
ライトがきっぱりと告げる。
「あなたには申し訳ないと思うわ。でもね、あのときと同じで、仕方ないのよ」
ラブラはいくらか同情を示したが、意見はライトと同じだった。
彼女はイーリカを見上げ、彼女の靴の先に前足を置き、かすかに眉を下げると言った。
「彼はね、イーリカが魔女だって知っててここに来たのよ」
このあとの続き、44・45・46話は、夜くらいに投稿できたらと思います。3話投稿がんばります!
イーリカ視点に戻ります。覗いていただけるとうれしいです!






