40_目覚めと次の一手(2)(ノア視点)
その日、光が差し込む一室で、ノアはゆっくりとまぶたを押し開いた。
すべてが鮮明だった。こんなにも深く長く眠ったのはいつぶりだろうと感じる。
「──ノ、ノアさま⁉︎」
ヘンリーの声だった。
老執事はノアが目を覚ましたことに気づき、すぐさま駆け寄ってくる。
彼の手を借りながら、ノアはゆっくりと体を起こし、ぐるりと室内を見回す。
見慣れたタウフェンベルク伯爵邸の自室ではなかった。
「……イーリカは?」
かすれる声で尋ねる。
倒れる直前、彼女の手が自分の体を支えてくれていたことを思い出す。
ヘンリーはノアの目覚めを心から喜びながらも、眉を曇らせる。
「数日前、首都レッセンへ戻られました。お引き止めしたのですが……」
「……そうか」
ノアはつぶやく。
イーリカの性格を考えれば、許しもなくこの屋敷に滞在することは心苦しかっただろう。それでも目覚めるまでいてほしかったとは思うが、それは自分の希望でしかない。
「僕は、どのくらい眠っていた?」
ヘンリーは言いにくそうにしながら、「洞窟で倒れられてから、六日が経ちました」
「……くそっ!」
ノアは勢いよくベッドから出ようとしたが、体に力が入らずへたり込む。
「いけません、まずは体力が戻るまでは安静に」
普段のノアからは聞きなれない暴言に目を丸くしながら、ヘンリーはノアの体を再度支える。
自分のままならない体にさらに舌打ちしたくなるのを堪え、ノアは彼に伝える。
「父上に連絡を取りたい」
「呼んだか」
すぐさま声がする。
目を向けると、開いた扉の向こうに、父であり、タウフェンベルク伯爵家当主その人が立っていた。
息子であるノアが突然数人の騎士を連れて屋敷を飛び出したと思えば、その後不測の事態があって倒れて目を覚まさないと、北部の別邸にいるヘンリーから報告を受けた伯爵は、イーリカと入れ違うよう駆けつけ、到着したのが昨日ことだった。
ノアは一瞬いるはずのない人物の登場に呆気にとられながらも、すぐに事態を飲み込み、口端を上げる。
そして盤上での次の一手を見つけたように、頷いてみせた。
「これ以上、時間を無駄せずに済みます」
* * *
ノアは伯爵に訊ねる。
「まずベルーナ嬢は、どこにいます?」
伯爵はヘンリーが用意したベッドのそばの椅子に腰を下ろす。
「この邸宅の離れに滞在中だ。丁重におもてなししている」
『丁重に』を強調しながら、
「あと本人には、ヴィルリート伯爵家に宛てて手紙を書かせた。タウフェンベルクからの帰り道、知人に会って、その相手のところにしばらくやっかいになることになったから心配しないように、とな」
ノアは頷き、問題ないことを示す。自分に意識があれば同じようにしたはずだ。伯爵が続ける。
「ベルーナ嬢の指示で誘拐を実行した、あの濃灰色の髪の男たちは、牢に捕らえている。少しばかり取り調べさせてもらったが、思った以上に口は堅いようだ。あとはお前が目覚めるのを待っていた。──で、あの連中は何者だ?」
伯爵が鋭い視線をノアに向けて言ったとき、
「恐れながら、旦那さま、ノアさま──」
背後でじっと見守っていたヘンリーが、控えめながらもはっきりとした口調で発言する。
立場をわきまえているヘンリーが主人たちの会話に口を挟むことはない。あえてそれを冒すときは重要な事柄だからだ。そのことを理解している伯爵は有能な執事に視線を向け、続きを促す。
ヘンリーは許しを得たことに感謝するように頷くと、
「こちらを」
と言って、ジャケットの隠しから一通の封筒を取り出し、ノアに差し出す。
「イーリカさんからです」
ノアははっと目を見開き、奪い取るようにその手紙に手を伸ばした。
すかさずペーパーナイフをヘンリーが差し出す。
それすらももどかしいように、ノアは急いで封を切る。
その様子を伯爵が興味深そうに眺めながら、
「ああ、今回誘拐されたという、お前が懇意にしている薬草茶店の娘か。そういえば、その娘はすでにここにはいないようだが?」
ノアはぴたりと手を止め眉をひそめるも、勘繰られないように手元の動きをすぐに再開させながら答える。
「……彼女の性格からして、許しもなく、ここにいることはできないでしょうから」
「そうか、自分を助けにきた男が倒れたのだから、心配なら目が覚めるまでそばにいるのが当然だと思ったのだがな」
ノア自身、イーリカにそばにいてほしかったと感じていただけにぐっと言葉を飲み込む。
「あの、そちらのイーリカさんからのお手紙にも書かれていらっしゃるかと存じますが、ひととおり誘拐事件については私もお訊きしております」
そう言ってヘンリーは、イーリカから訊いたことを事細かく話し始めた。
常連客である宿屋の女将の名を語り、空き家に呼び寄せられたこと。
そこで何者かに後ろから襲いかかられ、何かを口に入れられた途端、意識を失ってしまったこと。
手足を縛られ木箱に入れられて、あの洞窟まで攫われたこと。攫った男は濃灰色の髪の男たちであること。
そして洞窟で待っていたのは、ヴィルリート伯爵家のベルーナ嬢だったが、彼女もだまされたようで同じく捕らわれの身になったこと。
「──それでご令嬢のベルーナさまが、とっさに『司教さまは⁉︎ だってこれは司教さまが──』と口にされたそうです。イーリカさんも、その言葉が気になったと言っておられました」
ヘンリーの言葉に、ノアと伯爵が顔を見合わせる。
先に口を開いたのは伯爵だった。
「なるほどな。大方お前があの店を懇意にしている噂でも耳にしたんだろう。それで気になったベルーナ嬢が相談した相手が、よりもよって娘達を攫う悪事に手を染めている司教だったというわけか」
伯爵がちらりとノアを見やる。
ノアは唇を噛み締めていた。
それが事実なら、イーリカの誘拐は自分の行為が招いた結果とも言える。
途端にイーリカの手紙を読むのが怖くなった。
もしかしたら、憤りの言葉が綴られているのかもしれない。そう思うと、はやる気持ちは急速にしぼんでいた。
伯爵は息子のあまり見ない弱気な様子に、面白いものを見たとでも言うようにちらりと片眉を上げる。
しかしノアはすぐに気持ちを切り替えると、
「『司教さま』というのは、ヴェロルト正教会の司教のひとり、ヴィルリート領内の教会に強い影響力を持っている老司教のことでしょう。以前紹介されたことがありますから」
「ということは、我がタウフェンベルク領内の教会にも手が及んでいないか探る必要があるな」
「ええ、証拠を隠されないうちに早急に動く必要がありますが、こちらが探っていることを察知されればやっかいです」
「そうだな、神聖な教会を疑うなどもってのほかだとでも言って、門前払いをしてくるだろうからな。まったく食えない連中だ」
伯爵はククッと喉を鳴らし、そのあとすっと目をすがめ、
「しかしその腐敗がどこまで進んでいるか、だな。よもや教皇や大司教にまで及んでいるとは考えにくいが……」
ノアも考えをめぐらせる。
国教であるヴェロルト正教会を統べる教皇とその下に位置する大司教が、もし悪事に手を染めているならば国を揺るがすどころの話ではない。
しかしノアが知る限り、どちらのお方も思慮深く慈悲の心に満ちており、王家の信頼も厚く悪事に手を染めるような人物には思えなかった。
それは伯爵も感じているようで、
「いずれにしろ、事実をつかむのが先だ。牢に入れている連中も、背後にいる教会のことをこちらが知っているとにおわせれば口も割るだろう」
ノアはぴくりと肩を動かし、不敵に微笑む。
「──そうですね。僕も訊きたいことが山ほどありますから」
* * *
ノアは外の景色から、馬車の向いの席に座るヘルゲンに目を移す。
彼は先ほどから忙しなく手帳をぺらぺらとめくり、確認作業に余念がない。そこにはおそらく、これから行く先で質問したい事柄をこれでもかと書きつけてあるのだろう。
数日前、ノアは伯爵と今後の行動について話し合った日の夜、これから向かう先に同行してもらう人材をどうするかと思ったとき、頭に真っ先に浮かんだのが、幼い頃自分の男性家庭教師を務めてくれていたこのヘルゲンだった。
『もしきみにいやがらせをする連中がいたら、これを煎じて飲ませるといい、数秒で心臓が止まる』
『こっちは幻覚を見たあとに踊り出す』
ヘルゲンは薬学においては右に出る者はいないほどの人物だが、少し、いやかなり変わっていて、幼い子どもに教えるにはいささか刺激が強いことも、嬉々として語るような典型的な学者気質の人物だった。
当時、ノアの周りは子どものノアを通して伯爵家に目を向けている大人ばかりだった。
そのことにいささか辟易していたノアにとって、飾らない面白い大人のヘルゲンは好感を抱けた数少ない人物でもあったのだ。
そして今回の計画に、彼以上の適任はいなかった。
ノアは馬車の外に目を向ける。
ヴェロルト正教会が管轄するヴェロルト区とタウフェンベルク領との国境は、もう目と鼻の先だった。
この続きの41話も、あとで投稿します!黒幕を探ります……!






