39_目覚めと次の一手(1)(ノア視点)
タウフェンベルク国境近くの街。
そこにある比較的安価な宿屋の前で、一台の簡素な馬車が停まった。
宿の前には眼鏡をかけた初老の男性が立っている。
男性は馬車が来ることをあらかじめ予期していたように、御者の手で開けられた扉から迷いもなくするりと中へ乗り込んだ。
「やあ」
初老の男性は、親しみを込めて目尻を下げたあとで帽子を脱ぐ。
いくらか白いものが混じる明るい金髪が覗くが、ところどころ跳ねている髪の毛を見れば、あまり見た目に頓着しない人物だとすぐに見てとれる。
対して、すでに馬車に乗っていた青年は、初老の男性と同じく眼鏡をかけて一見地味にも見える装いをしていたが、焦げ茶色の髪の毛はきれいに整えられ、前髪はわずかに顔を覆うように斜めに分けられている。襟元を飾る紺色のネクタイはお手本のように隙なく結ばれていた。
「ご無沙汰しております、ヘルゲン先生」
青年は初老の男性に敬意の目を向ける。
うん、と頷いたあとで、初老の男性が訊ねる。
「ところで、ノールドアルトくん。きみの髪の毛は淡い金髪だったと記憶していたんだが、成長して変わったのかな?」
何年経っても変わらないその穏やかな口調に、今や立派な青年に成長しているノアはわずかに口元をゆるめる。
初老の男性ヘルゲンは、幼い頃のノアの男性家庭教師を務めていた人物だ。
専門は薬学。なかでも独特の視点をもっているヘルゲンは、ノアに色々な興味深い知識を授けてくれた。
「いいえ、念のため染めました。あちらには僕を知る人間がいないとも限りませんから」
ノアは髪に少し手を触れ、答える。
「なるほど、伯爵家は髪の染色技術まで有しているのか、気になるところだね。眼鏡まで用意するとは、抜かりはなしということか。それにしても数年ぶりに連絡をもらったと思ったら、突然こんな国境に呼び出されて驚いたよ。ああ、それと手紙は指示どおり、燃やしてすでに消し炭になっているから安心しなさい」
「助かります」
そう言って、ノアは彼に視線を向ける。
「──それで」
ヘルゲンは眼鏡の奥の瞳に気持ちの昂りをにじませながら、
「ヴェロルト正教会の薬草園である、あの『大庭園』を見学できるというのは本当かい?」
「ええ」
「そうか! それはここまで来たかいがありそうだ! あそこはよほどのことがない限り、関係者以外の立ち入りは許可されないからね。それにしてもどういう手段を使ったんだい?」
その問いにノアが優雅な微笑みで返したので、ヘルゲンは顔の前で手を振り、
「いや、詮索はやめておこう。それを知ることは私の範疇ではないからね。いずれにしても、私はこの機会にとことん見学させてもらうとしよう」
「ええ、お願いします。それと今日僕は、先生の助手のひとりということになっていますから。ほかにも四人ほど若い男を助手役で連れてきています。後続の馬車がじきに追いつくでしょう」
「ああ、そうだったね。その助手役たちが羨ましい限りだ、若いうちからこんな機会に恵まれるなんて」
そう言ってヘルゲンは、まるで遠乗りに出かける子どものように目を輝かせた。
馬車に揺られながら、ノアは通り過ぎる外の景色に目を向ける。
ここに至るまでの数日は、まさに時間との勝負だった。
このあと続きの40話も、夜に投稿します!覗いていただけるとうれしいです(*ˊᵕˋ*)






