38_見上げた月と涙
──カシャンッ。
薬草茶店のカウンターの中で、イーリカは今日だけでも何度目かわからないほど匙を落とした。
イーリカが誘拐され、助けに来てくれたノアが倒れてから、数日が経過していた。
倒れたノアは、あのあとすぐに洞窟から一番近くにある伯爵家の別邸に担ぎ込まれた。
そこにはヘンリーが待機しており、彼に頼んでイーリカもノアのそばにいさせてもらった。
駆けつけた医師の診断によると、ノアの命に別状はなく、深く眠っているだけとのことだった。
それでも不安は尽きず、最初の三日間はイーリカも屋敷に滞在させてもらっていたが、主の許しもなく客人にように扱われながら居続けることへの心苦しさと、これ以上使用人たちの噂にのぼって迷惑をかけてしまうことが気になり、後ろ髪を引かれる思いで退去して首都レッセンに戻ってきたのが一昨日のこと。
ヘンリーはノアが目覚めるまではと引き止めてくれたが、さすがに甘えることはできなかった。
「寝てるだけなんだろ? ならそのうち目が覚めるさ」
床に寝そべっているライトが気楽に言う。
「あんたねぇ」
じっとりとした目で、隣でぴんと背筋を伸ばして座るラブラがライトを見下ろす。
イーリカは二匹に目をやる。
自分を助けるためにライトとラブラは、ノアにしゃべれることを明かしてしまったと聞いている。
「ノアさまが倒れた原因は、ライトが力を込めて彼の瞳を見たせいだって言ってたけど……」
イーリカは不安げに二匹に訊ねる。
これもノアが倒れたあと、二匹からすでに説明されたことだ。
ラブラドライトの魔石であるライトとラブラは仮の姿である犬になっているとき、その本質を瞳に宿している。
ラブラドライトの本質は捉えどころのない、その不思議な光にある。
淡青色にも青緑色にも黄色にも、幾重にも変化する蝶の羽のような、虹のような、鮮やかな独特の色彩には人の意識に干渉する力があるのだ。
イーリカは魔女の血を引いているうえ、幼い頃からライトとラブラと生活しているため、普通に接している分には耐性ができているがほかの人はそうはいかない。そのため二匹は普段からイーリカ以外の人間と視線を交わすことを避けていたと、今さらながらイーリカは知った。
なぜ今まで気づかなかったのだろう、と疑問に思ったが、それもそのはず。これまでノアのように、イーリカに自ら近づいて来てくれる人はいなかったからだ。
日常で親交があり、店に顔を出すこともあるイーリカの薬草茶を取り扱ってくれているバーンズ商会のハンスでさえ、仕事のついで程度のやりとりしかなく、ライトとラブラがハンスの前に顔を見せることは滅多になかった。
そして偶然にもライトの魔石の本質に触れてしまったノアは、その影響で眠りについている、ということだった。
イーリカが不安な気持ちで考え込んでいるのを目の端にとらえながら、ラブラが小声で言う。
「ちょっと、あんた簡単に言うけど……、このまま目覚めなかったらどうするのよ」
「さあな、俺にだってわからないよ」
ライトはちらりとラブラに目を向けたあとで答える。
その無責任な言葉にラブラは眉根を寄せる。
「目覚めないだけじゃなく、もし思い出してたらどうするの」
一抹の不安を口にする。
ライトは、ふんっと鼻を鳴らす。
ラブラに言われるまでもなく、ライト自身もそれをもっとも心配しているのだ。
だからひとまずイーリカがあの男から離れて、首都レッセンに戻る決断をしたとき即座に賛成した。
「……もしそうなら、げんこつでもお見舞いして、記憶を飛ばしてやるさ」
ラブラは小さく首を横に降るとすっと腰を上げ、イーリカのもとへ歩いていく。
ラブラの揺れるしっぽを見つめながら、ライトは顔をしかめる。
(──そもそもふたりが再会するなんて、思わないだろ)
ざわざわと落ち着かない気持ちを胸に、ライトは心の中でひとり言い訳する。
そしてノアが最初にこの店に訪れたときのことを思い起こす。
(ひと目見てわかった。あのときの子どもだって──。でもどうしようもないだろ、助けを求める人間をイーリカは放っておけないんだから……)
* * *
イーリカはベッドの中で何度目かわからない寝返りを打った。
夜の真っ暗闇に覆われると、誘拐されたときの恐怖がいまだにぶり返す。
耳をすませば、プススーッという可愛らしい寝息が聞こえる。おもに寝息を立てるのはライトだが、二匹の気配をそばに感じてほっと胸を撫で下ろす。
そっと起き上がると薄いストールを羽織り、部屋を出た。
足音を忍ばせて階下へ降り、薬草茶店内に続く扉をゆっくりと開く。
満月に近いまん丸の月が空にぽっかり浮かび、ガラス窓から淡い光を店内に注いでいる。
その光の向こうに、イーリカはひとりの人物を思い浮かべる。
なるべく音を立てないよう軋む床の店内を進み、カウンターに近い壁際の使い古された椅子のひとつに手を触れる。
椅子の硬い質感を感じるのと同時に、誘拐されたときノアに強く抱きしめられた感触を思い出し、イーリカの胸はきゅっと締め付けられた。
あのとき、とても怖かった。
でもそれ以上に、そのあとノアが突然倒れてしまったときのほうが、イーリカの心臓は止まってしまうかと思った。
三年前に、母を失ったときも深い悲しみに暮れた。
大切なひとを失う悲しみは、二度と味わいたくない、そう思っていたが、ノアが倒れたとき、これ以上ないほどの悲しみと苦しみ、喪失感に襲われた。
そっと椅子を引き、静かに腰を下ろす。
視線は自然とカウンターに向いてしまい、彼の視線に映っている自分を想像する。
ノアの婚約者だと名乗ったヴィルリート伯爵家の令嬢ベルーナは、ノアの婚約者ではなかった。なぜ彼女がそんな嘘をつき、それをイーリカに語ったのかわからなかったが、今のイーリカの胸には安堵よりも苦しさが押し寄せていた。
(彼はこのタウフェンベルク領を治める伯爵家の嫡男、いずれ本当に婚約者という女性が現れるわ……)
きっと彼が選ぶ女性だ。自分には想像もできないほど、美しく洗練された令嬢だろう。
これまでノアはイーリカのことを十分すぎるほど尊重して接してくれていると感じていた。そして、あの日洞窟に助けに来てくれたノアは、イーリカをことさら大切に扱ってくれた。それこそまるで自分の婚約者がイーリカだといいと思っているように『きみのこと?』なんて冗談めいたことを口にもした。
『ノアと、そう呼んでほしい女性はイーリカだけだ』
耳元ではっきりと聞いた言葉を思い出すと、イーリカの頬がとたんに赤くなる。
ただただ、うれしかった──。
いち薬草茶店の娘でしかない自分が、彼にとって少しでも特別なら、これほどうれしいことはないと思ってしまった。
イーリカは後ろを振り返り、ガラス窓の向こうにぼんやりと浮かぶ月を見上げる。
しばらくして視線を前に戻すと、揺れる黒水晶の瞳を伏せ、椅子の上で、小さな子どものように膝を抱えた。膝頭に額を押し付け、うずくまる。
(だめよ、だめ、これ以上はだめ……)
思い出すたびに、近づきたくなる思いが増すのを必死に堪える。
(そもそも彼は知らない。わたしが『悪しき魔女』と言われ、忌避されている存在だってことを……)
どうしようもなく悲しかった。
胸が熱くなり、抑えきれない想いが涙になってあふれ出た──。
エピローグ前の最後の章「第七章」に入りました。
ここから事件解決とともに、ラストに向かっていきます……!
ぜひラストまで読んでいただけるとうれしいです!
次話の39話は、夜くらいに投稿できればと思います。






