36_救出と予兆(1)
「……ーリカ、イーリカ」
気づけば眠ってしまっていたイーリカの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。
ぼんやりとまぶたを開けるが、暗闇で何も見えない。
(そうだ、わたし、攫われたんだった……)
よみがえる現実に、イーリカの瞳にじわりと涙が浮かぶ。
「──おい、イーリカってば!」
急に生温かいものが頬に触れて、イーリカは思わず、ひえっと目を大きく見開く。
ぱっと目に飛び込んできたのは、暗闇の中、蝶の羽のような鮮やかな光を帯びたアーモンド型のふたつの目玉だった。
「ラ、ライト⁉︎」
「やっと気づいたか!」
イーリカの顔を舐めるほどの距離に、ライトが鼻先を近づけていた。
「ほ、本物?」
イーリカはなんとか上半身を起こす。手足は縛られたままだった。
「ああ、イーリカ!」
ライトはイーリカの体のあちこちに鼻先をぶつけ、見たことがないくらいに喜びをあらわにしていた。そして確かめるように、
「ちゃんと頭はくっついてるか⁉︎ 腕は⁉︎ 指は⁉︎ ああ、無事だったんだな!」
あまりの興奮ぶりにイーリカの頬もゆるむ。
「ええ、無事よ。おおげさね」
「おおげさなもんか!」
ライトはむっとむくれたような声を出す。
「だってイーリカに頭や腕なきゃ、もう白アスパラのスープが作れなくなるだろ」
そう言って胸を張ったので、イーリカは思わず呆れてしまう。
(せっかく感動してたのに、台無しだわ)
それでもこうしてライトがそばにいてくれることで、イーリカの胸を覆っていた不安な気持ちは消え去っていた。
「ラブラも一緒なの? 気配を追って来てくれたのね」
「ああ、なんとかな。イーリカ、途中で意識を取り戻してくれただろ? だから行き先を絞れて追いつけたんだ。じゃなきゃ、ちょっと危なかったな」
「え、どういうこと?」
危なかった、という言葉にイーリカの心臓がひやりとする。
ライトは鼻先にしわを寄せる。
「イーリカが攫われてすぐにあちこちを通行封鎖にしたみたいなんだ! でも通り抜けされてたみたいでさ! まったくどうしてくれるんだ! ああ、それよりも! ここは黒い森のそば──、いや、もう森の中と言ってもいいな! こんなことなら扉を通って来たほうが早かったくらいだ」
ひとり早口でまくし立てて怒っている。
ライトの言葉にイーリカは目を見開く。
「ここ、黒い森なの?」
「ああ、そうさ、それで──」
とライトが言いかけたとき、突然、空洞の外が騒がしくなった。
あちこちから聞こえるのは、大勢の足音と怒号、そして剣のような硬いものが激しくぶつかり合う甲高い音だ。
「ああ、俺が戻るまで待てって言ったのに!」
ライトが頭を掻きむしるように、向こうを振り返る。
するとランタンの光の中、誰かがこの空洞に入ってくるのがわかった。
目をすがめるが、逆光になっていてよく見えない。
とっさにライトを背後にかばうように、イーリカは体を前に出す。
その次の瞬間、
「イーリカ‼︎」
息もできないくらいにきつく体が包み込まれた。
(え──)
イーリカはわけもわからず呆然とする。
しかしゆるゆると、自分の名を呼ぶ声を実感すると、
「ノア、さま……?」
胸に込み上げるものを堪えながら問う。
「ああ、僕だ」
耳元で囁く声がする。
「おい! そんなに力を入れてちゃ、イーリカがつぶれちまう!」
ライトが声を張り上げる。
ノアは力をゆるめるが、しかしすぐにもう一度確かめるようにイーリカをきつく抱きしめる。
「よかった……」
ノアの声と体は小刻みに震えていた。
たまらず、イーリカの瞳から涙があふれる。
(助けに、来てくれたんだわ……)
どうしてここにノアがいるのか、どうして自分が誘拐されたのがわかったのか、訊きたいことがたくさんあるのに言葉にならない。
そのとき、
「ノールドアルトさま!」
声がして、近づいて来たのは、剣を手にした男たちだった。
イーリカは思わず体を強張らせる。
それに気づいたノアは優しい声色で言う。
「彼らはタウフェンベルク伯爵家の騎士たちだ、安心していい」
その言葉に頷き、少し見回したあとで、イーリカは肩の力を抜く。
よく見れば、彼らは簡易の旅装姿ではあるものの、統率がとれた立ち振る舞いなどから、濃灰色の髪の男たちの仲間には見えなかった。
「ほかにもご令嬢が捕らわれていました」
騎士のひとりがノアに告げ、すっと後ろを振り返る。
そこには疲れ果てた顔のベルーナがいた。
しかし彼女はノアの姿に目を留めると、ぱっと顔を輝かせ、駆け寄ろうとする。
すかさずノアが手を上げると、周りの騎士たちがそれを制止する。
「ちょっと! なぜ騎士がわたくしに触れるのです⁉︎ ノアさま、放すように言ってくださいませ!」
ベルーナは憤るように声をあげる。
ノアは横目でベルーナに冷たい視線を投げつけたあと、くるりとイーリカに向き直る。
「ここは騒がしい。早く出てしまおう」
そう言って、何事もないようにイーリカを見つめて微笑む。
「ノアさま! ノアさま! やめて、放しなさい!」
しかし後ろからはベルーナが叫び続けている。
それでもノア、まったく聞こえていないそぶりで、じっとイーリカだけを見つめている。
居た堪れなくなったのはイーリカのほうだった。
ベルーナはノアの婚約者ではないのか。そう彼女が高らかに宣言していたのを、はっきりと覚えている。
「あの……、あなたの婚約者はいいの?」
イーリカはノアからそっと体を離そうとしながら問いかける。
しかしすぐにその言葉が矢のように返ってきて、イーリカの胸に刺さる。
本当なら何も訊きたくない。でもはっきりと受け止めるなら早いほうがいい、そう言い聞かせる。
しかし返ってきたのは、意外な言葉だった。
「婚約者? 誰の?」
ノアはさも不思議そうに、首を傾げる。
戸惑うように、イーリカは視線を向ける。
「だから、あなたの……」
ノアはわずかに逡巡してから、希望的観測を込めて言ってみた。
「きみのこと?」
イーリカはきょとんとし、一呼吸置いてから、薄暗闇でもわかるほど途端に顔を真っ赤に染める。
思わぬ反応にノアは喜ぶように、イーリカを強く抱きしめる。
「ノアさま⁉︎ ちょっとあなた! 今すぐノアさまから離れなさい‼︎」
しかし後ろがひどくうるさかった。
ノアは顔をしかめ、わずかに振り返ると、
「ベルーナ嬢、きみがイーリカ誘拐に関与しているのはわかっている。事の詳細はあとでしっかり訊かせてもらう。それにしても、すぐさま各所に通行封鎖の指示を出したのに、タウフェンベルク領内の宝石商と共謀してすり抜けるとはね。ああ、あとその前に何度も言うようだが、僕のことを『ノア』と呼ぶのは今すぐやめてもらおうか。そう呼んでほしい女性はイーリカだけだ」
冷ややかに言い放つ。そして、
「行こうか」
ゆっくりとイーリカを立ち上がらせようとした。
しかしイーリカの手足を縛っている縄を目にして、ぎりっと唇を噛み締める。剣を握り、慎重に断ち切る。
「……ありがとう」
自由になった手首をさすりながら、イーリカは、心の底から安堵の息が漏らした。
ノアは、イーリカの体に手を添え、彼女をそっと立ち上がらせた。
「とりあえず、外に出よう」
次話の37話は、あとで投稿できればと思います!覗いていただけると、うれしいです!






