35_洞窟
次にイーリカが目覚めたとき、そこは洞窟の中だった。
もうすぐ暑い時期になるというのに、ひどく肌寒い。
ズキズキと頭痛がし、手足を縛られたまま木箱に入れられていたせいで、体のあちこちが痛む。
手足の拘束は解かれておらず、手についた縄の先を引っ張ってみたが、逃げられないように何か重たいものに結びつけられているのかまったく動かなかった。
(今度はどのくらい眠っていたのかしら……)
ぼんやりと覚醒する頭で考え始めようとする。
そのとき、誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
ランタンの揺れる灯りが、人影を洞窟の壁面に映し出す。
イーリカはごくりと生唾を飲み込み、身構える。
しかし姿を現した人物を見て、イーリカは目を疑った。それこそ一瞬、洞窟の中にいることを忘れてしまいそうだった。
なぜなら、そこにいたのは目を瞠るほどのきれいな令嬢だったからだ。
真っ白な肌にはシミひとつなく、ゆるく波打つ金の髪はハチミツを連想させ、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳は覚めるような碧眼だった。
着ているドレスの丈はわずかに短めで動きやすい格好のようだったが、気品あふれる様は相手が貴族であると示していた。隣には侍女らしき女性を連れている。
「ごきげんよう。またお会いできるなんてうれしいですわ」
令嬢はイーリカの姿を目に留めると、場違いなほど優雅に微笑み、屋敷で客人を迎えるかのような口振りで言った。
イーリカは眉根を寄せる。
(この方、状況をわかっているのかしら?)
イーリカは手足を縛られている捕らわれの身なのだ。
そんなイーリカの態度に令嬢はむっとした様子で、真っ白な手袋をはめた手を胸に当て、イーリカに迫る。
「わたくしのこと、覚えておいでですわね」
イーリカはますます眉間のしわを深くして言い放つ。
「恐れながら、はじめてお会いしたかと存じますが。それよりも──」
この状況は何なのか、と尋ねようとした。しかし、
「わ、わたくしのことを覚えていないですって⁉︎」
令嬢は目をこれでもかというほどに見開き、イーリカを見下ろし、甲高い声を上げる。
「わたくしは、ベルーナ・ヴィルリートですのよ! 本気で言っているのなら許しませんことよ!」
イーリカはじっと令嬢に目を凝らすが、見覚えはまったくなかった。
それもそのはず、記憶を失っているイーリカにとって、ノアへの恋心を自覚したきっかけにもなったベルーナのことは見覚えのない令嬢だった。だから、
「そちらこそどういうつもりですか⁉︎ わたしをこんなところまで連れてきて!」
イーリカは非難の声を上げる。
普段のイーリカなら立場をわきまえているため、そんな無礼な口の利き方はしない。
しかしこの令嬢が自分の誘拐に関与していることは疑いもない。そんな相手に礼儀は必要なかった。
「な、何という口の利き方を」
令嬢ベルーナはわなわなと肩を震わせる。
イーリカはベルーナをじろじろと眺める。
(いったいこの人は、なぜわたしを誘拐したのかしら……)
それこそ、あきらかに裕福そうなこの令嬢を誘拐するほうがよっぽど身代金などを要求できそうだ、とも思ってしまう。
しかしそこで、はたと気づく。
(ヴィルリート……?)
目を見開き、ベルーナを見つめ、思わず言葉が漏れる。
「もしかして、隣領のヴィルリート伯爵家の……?」
その反応に、あら、とベルーナは声をあげる。
「やっぱり知らんふりをしていたのね。嘘までつくなんて、何ていやしいのかしら」
紅い唇の端を上げて優雅に頬に手を当てたあとで、高らかに言い放つ。
「そうね、そんな方には何度でも言って差し上げるわ。ええ、そうよ、わたくしは、ヴィルリート伯爵家の娘、──そしてノアさまの婚約者よ」
イーリカの顔からさっと表情が抜け落ちる。
(──婚約者?)
固まっているイーリカを見てベルーナは、
「ふふふ、もう一度しっかりとその胸に刻みつけておくことね」
イーリカは激しく動揺していた。
ノアの婚約者が自分を誘拐したという事実よりも、ノアに婚約者がいたことに傷ついている自分がいた。
ぎゅっと唇を噛み締める。
しかしすぐに気持ちを抑え込むと、震える唇で問いかける。
「……もしかしてこれまで若い娘が行方不明になっていたのは、あなたたちヴィルリート伯爵家のしわざなんですか」
(わたしたち魔女に、濡れ衣を着せたのも──)
そのときだった。
「おっと、そこまでだ」
ベルーナの背後からぬっと現れたのは、あの濃灰色の髪の男だった。
やはり仲間だったのか、とイーリカが思ったのも束の間、男はためらいもなくベルーナの背中をドンッと押した。
「きゃあ! 何をするの!」
ベルーナはいとも簡単に地面に倒れ込み、ほこりまみれになる。キッと男をにらつけ、次に主人をすぐに助け起こそうとしない自分の侍女に視線を向けて怒鳴りつける。
「何やってるの! 起こしてちょうだい!」
「いいえ、ベルーナさま。あなたの侍女は、もう終わりですわ」
侍女は氷のような瞳をベルーナに向ける。
そしてさっと縄を取り出し、手際よくベルーナの両手を縛っていく。
「ちょっと! どういうこと! こんなことをしてただで済むと思っているの⁉︎ わたくしはベルーナ・ヴィルリートよ!」
ベルーナは思いもよらない事態に、ジタバタとあがきながら叫ぶ。
濃灰色の髪の男は、高貴だった令嬢の見るも無惨な姿を見下ろし、言い放つ。
「それがどうした? もうあんたが何者だろうと関係ない」
そしてベルーナに顔を近づけ、にやついた笑いを浮かべる。
「それに忘れたのか? そもそも、その嬢ちゃんをさらってくれと頼んだのはあんただぜ。俺たちのことを責めるなら、あんたの罪もすべて知られちまうがいいのか? ああ、婚約者がいるんだっけか? このことが知られたらどうなるんだろうなあ?」
「な、何てことを!」
ベルーナは顔面蒼白になりながら肩を震わせる。しかしはっと何かを思い出したように、
「司教さまは⁉︎ だってこれは司教さまが──」
ベルーナが言いかけたとき、濃灰色の髪の男はベルーナの顔を乱暴につかむ。
「さあ、そのこうるさい口を閉じて、大人しくしてもらおうか」
鋭い視線を向けて、口に薄汚れた布をねじ込もうとする。
(……司教さま?)
それはヴェロルト正教会の聖職位のひとつではないか。イーリカはわずかに眉根を寄せた。
ベルーナは体をよじり、必死の抵抗を見せようとしている。
「放しなさい! 穢らわしい手でわたくしに触れないで!」
「この! 調子にのりやがって!」
男は我慢できなくなったとばかりに、勢いよく手を振り上げる。
そして、バチンッ──‼︎ と乾いた音が洞窟内に響き渡った。
直後、イーリカの頬が見る間に赤くなり、熱を帯びる。
イーリカはベルーナの前に覆いかぶさっていた体を起こすと、静かに男に向き直り、じんとする頬のまま口を開く。
「やめて、この人に手は出さないで」
男は一瞬呆気にとられながらも、すぐに意識を戻すとイーリカを見やる。
「はっ! あんたこの女にだまされたんだぜ?」
「それでも放っておけないもの」
イーリカは毅然と言い放つ。
男はくくっと笑いを噛み堪える。
「いつまでそうお人好しでいられるかな。たとえ神に祈ってもあんたの末路も一緒だぜ」
イーリカは精一杯にらみをきかせて言い返す。
「そうね」
「けっ!」
男は吐き出し、背中を向けてひとり出ていく。
イーリカはかすかに息をつく。
後ろのベルーナが身動きしたので、体を横にずらした。
「何で……」
ベルーナが恐怖で堪えきれなくなった涙を目にあふれさせながら、イーリカを見つめている。
イーリカはふっと視線をそらす。 あえてきつい口調で返す。
「あまり挑発するようなことは言わないほうがいいわ。事態が悪化するだけよ」
まだそばにいるベルーナの元侍女の女がこちらに視線を向けているのが、イーリカの視界には入っていた。
「わ、わかってるわよ!」
ベルーナがかっとなりながら言葉を返すが、イーリカの手が震えているのを見て、はっと表情を固くした。
そのとき、元侍女の女が「さあ、行くわよ」と言って、ベルーナの腕を乱暴につかんで立ち上がらせる。
「痛い! 痛いったら‼︎」
たまらずベルーナはたまらず叫ぶ。
「待って、その人をどこへ連れていくの」
イーリカは女を見上げ、引き止めるように尋ねる。
女はこんな目に遭わされてもなお令嬢を心配するイーリカの言葉に対し、わずかに眉を上げたものの、すぐに冷ややかな声で言う。
「違う空洞よ。ふたり一緒にいて逃げる算段でもされては困るもの」
そしてランタンを片手に、嫌がるベルーナを強引に連れていってしまう。
明かりとともに遠ざかる姿を見送りながら、
(大人しくできればいいけど……)
他人の心配をしている場合ではないが、それでもイーリカは哀れな令嬢のことが気になった。
誰もいなくなった空洞は、真っ暗でしんと静まり返っている。
イーリカはぎゅっと膝を抱え、膝頭に額をこすりつける。
(……大丈夫、きっとライトとラブラが助けに来てくれる。……大丈夫)
そう何度も言い聞かせながら、まぶたの裏にはノアの顔が浮かぶのを止められなかった。
次話36話は、夜くらいに投稿できればと思います!






