30_不穏な影(2)(ノア視点)
誘拐事件のことを忘れている息子を慮り、事件の詳細についてはこれまで一切触れてこなかった伯爵だったが、ノアが十八歳になったのを機に知るべきだろうと判断し、去年ある事実を伝えたのだった。
幼いノアの誘拐事件が起こる少し前、タウフェンベルク領内にあるヴェロルト正教会の司祭のひとりが不正に手を染めた事件があった。
いち司祭でしかない男の手元には、不正に受け取った金が莫大にあることが明るみになり、捜査のため捕縛したのはいいが、そこへ横槍を入れてきたのがヴェロルト正教会だった。司祭である男の処分は教会が引き受けると言い、身柄の引き渡しを要求してきた。
しかし領内での出来事のため、伯爵は理由をつけて拒否していたところ、息子であるノアの誘拐事件が起こったのだ。
ノアの誘拐に際して、犯人が要求したのは多額の身代金だった。そのため、当初ふたつの事件に関連性はないと思われていた。
だがノアの捜索で伯爵家が手薄になっているところ、捕えていた司祭の男が逃亡。
すぐに伯爵家の騎士らが追跡したが、翌日崖の下でこと切れている男の死体が見つかったと、ノアは聞いていた。
伯爵は当時を振り返りながら頷き、
「とらえていた司祭が逃げ、死亡したことを教会にも伝えたが、あれだけ身柄をよこせと言っていたくせにまるで手のひらを返すように、あとはそちらに任せると通達してきた。当時も怪しいと思い細かく調査したが、何も証拠が出てこなかったことが、今となっては悔やまれるな」
と言って眉間のしわを濃くする。
「それに、まだ確実な証拠がない状態では、王家への進言もできかねる。何とかしっぽをつかみたいところだが……。まあ、焦っても仕方あるまい」
伯爵は再び椅子に腰を下ろした。
そのあとで話は終わりだと言わんばかりに、急に空気をゆるめる。
「ときにお前、街で懇意にしている店があるそうじゃないか」
それは尋ねるというよりは、すでに裏づけがとれている事実をあえて確認するような含みがあった。
ノアの肩がぴくっと動く。しかし表情は崩さず答える。
「薬草茶店のことでしょうか、それなら飲むと体の調子がいいので愛飲しているだけです」
そもそもノアが不眠で悩んでいることは、ヘンリーしか知らない。もしこのまま完治することがあれば、このまま両親にも告げるつもりはなかった。
「そうか」
伯爵はノアを見つめる。
ノアはその視線を冷ややかに受け止める。
「何か?」
「いや、足繁く通っているような噂を耳にしたのでな」
「……珍しい店だったので、いけませんか?」
「いいや?」
そう言いながらも、伯爵は興味深そうに返す。
ノアはわずかに苛立ちをにじませる。
「お話は済んだようなので、これで失礼いたします」
そう言うとくるりと向きを変え、執務室をあとにした。
廊下を進みながら、ノアは苛立ちを堪えていた。
自分がイーリカの薬草茶店に通っていることは、いずれ伯爵である父の耳に入る可能性は考えていた。
それでも時期が悪いとしか思えなかった。
今はイーリカと距離を置く以外方法がなくなり、タウフェンベルク領内で起きている行方不明の事件は、よりもよって国教であるヴェロルト正教会が関与しているかもしれないのだ。
「はあ……」
ノアは足をぴたりと止め、淡い金色の髪に指をうずめる。
イーリカのところに通えなくなったせいなのか、眠りに作用する薬草茶を飲んでも、以前よりも安眠できる時間が少なくなっていた。
問題は山積みになるばかりなのに、まだ当分ヴィルリート伯爵家のあの令嬢と顔を合わせなければならないと思うと嫌気が差す。
ノアはイーリカの笑顔を思い浮かべ、再び苦しげにため息を漏らした。
長らくノア視点でしたが、次話は、イーリカ視点に戻ります……!






