27_ハナハッカの花冠(3)(ノア視点)
次の日の早朝、ヘンリーはイーリカに手を引かれて、ある場所まで来ていた。
「ここは?」
辺りを見回しながらヘンリーが尋ねる。
いつもの小屋のそばにあるベンチからは離れ、かなり森の中まで入ってきていた。
「きれいでしょ?」
そう言って、朝日を受けたイーリカが自慢げに両手を広げて笑う。
しかしその目元だけが泣き腫らしたように赤くなっていた。
「そうだね」
ヘンリーは油断するとあふれそうになる涙を堪えようと、イーリカからさりげなく目をそらし、周りに目を向ける。
沈んだ気持ちとは裏腹に、辺り一帯は伸びた茎の先端に咲く薄紅色と濃い紫色の花々で覆い尽くされ、別世界のように輝いていた。
「この時期になると、こんなふうにハナハッカがたくさん咲くの、きれいでしょ!」
「うん、とってもきれいだ……」
爽やか風に揺れているハナハッカの前で、くるくると回るイーリカの姿にヘンリーは目を細める。
「そうでしょ? お気に入りの場所なの! じゃあ、ここに座って」
ヘンリーも気に入ってくれたことにイーリカは喜ぶ。彼の手を引き寄せ、地面に座らせる。
慣れた手つきでハナハッカをむしりとり、くるくると器用に何かを形作っていく。しばらくすると、
「はい、できた!」
そう言って、ヘンリーの頭の上にのせたそれは、ハナハッカで作った花冠だった。
「よく似合ってるわ」
イーリカはにこりと笑って見せる。
花冠が似合っていると言われ、ヘンリーは少しばかり膨れる。
「きみのほうが似合うよ。ちょっと待ってて」
ヘンリーは見よう見まねで花冠を作り始める。しかしうまくいかない。
時間をかけてでき上がったものは、お世辞にも花冠というにはほど遠いでき映えだった。
さすがのヘンリーも、イーリカの頭の上にのせるのはためらってしまう。
すると、イーリカはひょいっと彼の手から花冠を取ると、自分のダークブロンドの髪にのせた。
「えへへ、どう? 似合ってる?」
陽の光を受けた焦げ茶色の髪の毛は、やや透けて輝いて見える。
「どうって、そんなくたくたの花冠じゃ……」
ヘンリーは、唇をわずかに尖らせ顔を背けるが、耳はほのかに赤くなっていた。
そんな出来損ないの花冠でも、イーリカがとても喜んでくれたことが何よりもうれしかった。でももうこんなイーリカの顔を見られなくなると思うと、胸が張り裂けそうだった。
「ねえ、ヘンリー……」
わずかに沈んだイーリカの声色に、ヘンリーは慌てて振り向く。
イーリカが両手を伸ばして頭にのった花冠を握り締め、うつむいていた。
イーリカ、と呼ぼうと口を開きかける。
しかしその前に、イーリカがぽつりと言った。
「あの日、ベンチの隣に座ってもいいって、ヘンリーが言ってくれたこと、すごくうれしかった……」
一瞬いつのことだろうと思い、間もなく、カミラに促されてはじめて小屋の外のベンチに連れ出されたときのことだとヘンリーは思い至る。お礼を言われるほどのことじゃない、そう思った。
「そんなこと──」
「ううん、だってヘンリー以外、誰もそんなこと言ってくれなかった。だってわたしは──」
「──ワン!」
いつの間にか姿を現したライトが、イーリカの足元に体を寄せていた。
イーリカがはっとした表情で、ライトに目を向ける。
「ライト……。うん、わかってる、大丈夫。ありがとう」
まるで犬のライトと会話しているようだった。今だけでなく時折そういうことがあった。それはイーリカに限らず、カミラとラブラにも言えた。
しかしそれよりも、ヘンリーはイーリカの言いかけたことのほうが気になった。
「イーリカ、いま何か言いかけ──」
「ヘンリー、戻ろっか。母さまが呼んでるって」
イーリカがヘンリーの問いかけをふさぐように言った。微笑んでいるが、どこか悲しげな瞳がそこにはあった。思わずヘンリーは口をつぐむ。
小屋へ帰る道を歩きながら、イーリカはそっとヘンリーの手を取る。
「……これ、大切にするね」
イーリカがつないでいないほうの手を上げ、頭にのっている不恰好なハナハッカの花冠にそっと触れた。今にも泣きそうな顔だった。
「……イーリカ、ぼく、会いにくるから」
ヘンリーはある決意を固め、イーリカの小さな手をぎゅっと握り締める。
「……うん」
「絶対に」
「……」
「イーリカ?」
イーリカは花冠を下げて顔を隠し、何も答えない。かすかに唇が震えているように見えた。
不安になったヘンリーは、イーリカの顔を覗き込もうとする。
そのとき、イーリカがぱっと顔を上げた。
黒水晶のような灰褐色の瞳は何かを堪えるように揺れていた。
イーリカは一度唇を開きかけたが、まぶたをぎゅっと閉じ、ぶんぶんと首を振った。
「うん、待ってる」
そう言って、いつもの満面の笑みを見せたのだった。
小屋に着くと、カミラがお茶を用意してくれていた。
三人でテーブルに着き、どことなく重苦しい空気のまま、簡素なカップに口につける。
「あ……」
とイーリカが口を開く。
なにか言いたげな様子だった。ヘンリーと目が合うと、
「ううん、なんでもない。……おいしい?」
と尋ねる。
「うん、いつもよりちょっと苦いけど、さっぱりしてておいしいよ」
ヘンリーは首を傾げながらそう答える。いつも食後に出されているお茶とは味が少し違う気がしたが、すべてを飲み干した。
しばらくすると、ヘンリーの視界がぼんやりし始める。
おかしいな、と思ったのも束の間、まるで霧の中を歩いているような感覚に陥る。
遠くで声がした。
「──ラブラ、お願い」
カミラの声だった。
「ええ、わかったわ」
答えるもうひとりは、知らない女性の声だった。
「でも、本当にいいの、イーリカ?」
知らない女性の声が、イーリカに尋ねたようだった。
(……イーリカ?)
「……だって仕方ないもの。この黒い森で、わたしたちに出会ったことは知られてはいけないから」
(……黒い、森? ここは黒い森だったのか? それに知られてはいけない? 何のことだ?)
薄れゆく意識の中でヘンリーは必死に手を伸ばす。
しかし彼の視界は突然、見たこともない景色に覆い尽くされた。
暗闇の中、淡い青色にも青緑色にも黄色にも、幾重にも変化する虹のような鮮やかな色彩が広がる。夜空を眺めているような、それでいて見たことのない星々が無数に煌めいている。
そういえば、と少年はかすかに思い出す。
亡き祖母の手にいつも輝いていた指輪があった。祖父から贈られたものだからと、祖母がとても大事にしていたものだ。
指輪についていた宝石が、たしか、ラブラドライト──。
その宝石の輝きにとてもよく似ていた。
美しい景色とは裏腹に、強引に意識下を探られている嫌悪感がじわりじわりと迫ってくる。
何か大事なものを失うような胸騒ぎがヘンリーを襲う。
しかし目をそらしたくてもできない。
様々な色に輝く光には逆らえないまま、彼の意識はストンと漆黒の中へと落ちていった。
続きの28話は、夜くらいに投稿できればと思います!






