23_裏切り(2)(ノア視点)
それは八日目のことだった。
その夜も、男たちは相変わらずワインの樽をいくつも空にし、騒いでいた。
少年を見張っている小柄の男も、手元のワイン瓶を何度も傾けている。赤らんでいる顔ととろりとした目元からも、ほどよく酔いが回っているのがわかる。
少年はじっと息を潜めた。しばらくすると見張り役の男は居眠りを始めたようで、かすかないびきが聞こえる。
(この機会を逃せば、もうあとはないかもしれない)
そのいびきに注意を向けながら、少年はここ数日でゆるくなっていた腕を縛っている縄を何度も捻り、隙間を作る。やがて手首が抜けるほどの隙間ができ、そこからそっと手を引き抜く。
つかまった最初こそ後ろ手に縛られていたが、男たちは少年に食事を与えるたびに縄を結び直すのが面倒になったのだろう、昨日から体の前側で縛られるようになっていたのが幸いした。
つかまっている間は、またあの得体のしれない何かを飲まされて眠らされるのではと警戒していたが、
『あれは大人でも使いすぎるとだめになるからな。あの日ですでに二度も使ったんだ、ガキにはもう無理だ』
というようなことを、偶然黒髪の男が言っていたのを耳にした。
それからというもの、
(一体僕は、二度も何を飲まされたんだろう……。そもそもあんな瞬時に効き目がある睡眠薬の存在なんて、薬学専門の男性家庭教師からも聞いたことがない)
と考え込むが、答えはでない。だが今は逃げるのが先だった。
見張り役の小柄の男からは、依然としていびきが聞こえている。
じっと耳をすませ、起きる気配がないのを確かめたあと、少年はゆっくりと立ち上がった。
明かりが漏れてくる向こう側にいる男たちは、時折テーブルを叩く音を響かせながら大声で騒いでいる。退屈を紛らわせるため、大方カードゲームでもしているのだろう。それも毎晩のことだった。
少年は洞窟の壁面に体を寄せ、男たちの視界に入らないようゆっくりと身を潜めながら、じわりじわりと歩を進める。
そして閉じ込められていた空洞から、意を決して抜け出した。
うねうねとヘビのように伸びる坑道でのこと、明かりもろくにない中、出口までたどり着けるか、正直なところ自信はなかった。
それでも少年はここ数日間、男たちの出入りを注意深く観察していた。自分が閉じ込められている空洞は、洞窟の中でも奥まった場所ではないと予測を立てていた。
洞窟は奥に行けば行くほど、光が届かず真っ暗になる。空気の通りが悪くなるため、長期間身を潜めるにはどうしても出入り口に近くにせざるを得ないからだ。
しかし暗闇の中で音を立てないように進むのは、思っていた以上に困難だった。
焦る気持ちを必死で堪えながら、じりじりと進む。まるで崖の上を命綱なしで進んでいるようだった。
そのとき、ふいに足元で何かがふわりと光った。
少年は目を瞬かせた。
(蝶──?)
それはまるで蝶の羽のようにも見えた。
しかしその羽は不思議な色合いをしていた。
暗闇の中、ぼんやりと光る色彩は、淡青色や青緑色、黄色にも見え、まるで空に浮かぶ虹を閉じ込めたかのような、不思議な輝きだった。
(蝶がこんな洞窟の中に迷い込むかな──?)
少年は眉をひそめる。
すると、蝶の羽がふわりと揺らめく。と次の瞬間には、ロウソクの光のような濃い赤色や橙色に変わっていた。
少年は足を止め、目を見開く。
瞬きする間に、蝶の羽は次から次へと色を変える。
あるときは、空にかかる雲のような白色かと思えば、一瞬で、野に咲くスミレのような紫色に、さらには深い森のような緑色に──、幾重にも変化する。
そしてその光は、ふわりふわりと点々と少年の行く先を照らし、まるで出口まで導いてくれているようでもあった。
夢でも見ているような不思議な光景だった。しかし怖くはなかった。
自然に少年の足はその光を追っていた。そのまま右に左に迷うことなく、突き進む。
気づけば、もう出口は目の前だった。
そのとき──、
「おい! 子どもがいないぞ!!」
後ろから男たちの叫び声がした。
弾かれるように、少年は一気に走り出す。
転がる小石に足をとられながらも、必死で足を動かす。
やっとの思いで洞窟の外に出られたが、あたりは真っ暗闇の夜だった。
わずかな月明かりが、頭上から降り注いでいる。
それだけを頼りに少年は、森の中をひたすら前へ前へと逃げた。
だが、しばらくして木の根に足をとられ、彼の体は山の斜面へ投げ出される。
少年は、なぜ──、と声にならない声で呟き、死を覚悟した。
──兄上、なぜ僕を見捨てたのですか。
そのままなす術もなく、少年の体は斜面を滑り落ちた。
胸になにかがぶつかり激痛が走ったところで、少年は意識を失った──。
次話は、幼いイーリカとノアとの出会いエピソードです……!






