21_手放した恋心(4)(ノア視点)
「いらっしゃいませ」
その日、ノアはやっとのことで訪れた薬草茶店の扉を開け、予想外のイーリカの反応に固まっていた。
前回あいまいなままで店をあとにしてから、すでに一か月以上が経過していた。
色々と執務が立て込んだうえ、隣領を治めるヴィルリート伯爵家の令嬢ベルーナが突如訪ねてきたためだった。
様々な交易があるヴィルリートは、ここタウフェンベルクにおいても大事な相手だ。
水面下で進めているある事柄のためにもノアを始め、タウフェンベルク伯爵家は隣のヴィルリートの人間を表面上、歓迎しないわけにはいかなかった。
タウフェンベルク現当主の父からも言いつかったこともあり、ノアは滞在中のベルーナの相手を務めていた。そしてようやくベルーナが帰ったのを機に、すぐさまイーリカを訪ねたのだったが──。
ノアはここへ来る馬車の中で、イーリカにどう接したらいいのか悩み、あれこれ数十通りもの彼女の反応を想定し、これまでと変わらない態度をとってもらうにはどうすればいいのか、可能な限り対策を練ったはずだった。
しかしイーリカの反応は、その想定すべてに当てはまらなかった。
なぜなら彼女は気まずそうに目を背けることも、困惑げに見上げることも、迷惑そうな顔をすることもなく、愛想のよい笑みを自分に見せていたのだ。
そこにはあんなやりとりをした気まずさは微塵も感じない。
しかし反対に、客と店主以外の親しみはどこにも見当たらなくなっていた。
(最初に店を訪れたときに見た顔だな……)
それがイーリカの営業用の笑みだと、今のノアならわかる。
「……入っても?」
かろうじて笑みを作り、尋ねる。
「ええ、どうぞ。眠りに作用する薬草茶は、すぐに準備するから」
そう言ってイーリカは、カウンターの中へと入っていく。
イーリカの砕けた口調を耳にして、ノアはひそかに安堵のため息を漏らす。一方で、
(口調はかしこまってないけど、この妙な違和感は何だ……)
疑問に感じながら、ひとまず店内に入ろうと足を踏み出したとき、むぎゅっと何かがノアの靴を踏んづけていった。
足元に目をやると、黒い犬が自分の足の上を通り過ぎるところだった。
磨き上げられた靴の上に、肉球の跡がはっきりとついている。
「ライト! だめじゃない!」
それを目にしたイーリカが慌てて声をあげる。
「ごめんなさい、お客さまにこんなことしたことなかったのに」
(お客さま、か)
イーリカの言葉に引っかかりを覚えながら、ノアは首を振る。
「いや、いいんだ」
これまで何度も店の中で目にしていたイーリカの家族である犬たちだが、彼らのほうから近寄ってくることは今までなかった。それどころか視線さえもそらされることが多いくらいだった。それなのにわざわざ自分の足を踏んでいくなんて。
(まるでいやがらせだな)
そう思ったが、すぐに、まさか、と苦笑いする。
「ちょっと待って、今すぐに」
そう言って、イーリカは急いでノアのそばに駆け寄る。
スカートの隠しからハンカチを取り出すと、彼の前に膝をつき、手を伸ばして靴についた汚れを拭こうとする。
ノアはぎょっとして、とっさにイーリカの両肩をつかんで止めていた。
「やめてくれ!」
「あ、ごめんなさい……」
イーリカが怯えたように、こちらを見上げる。
ノアは眉根を寄せてから、そっとイーリカから手を離す。
「気にしなくていい、それより……、大きな声を出してすまない」
「いえ、いいの……」
イーリカはゆっくりと立ち上がり、カウンターの中へと戻る。
ノアは自分に苛立ちながらも、冷静さを保とうと、いつものカウンターに近い壁際の席に座り、帽子を脱いだ。
しかしなぜか落ち着かない。
店に来たのが久しぶりすぎるせいなのか。妙な胸騒ぎを感じているせいなのか。椅子に座って眺める景色の中で、自分だけがひどく異質であるように思えてしまう。
「どうぞ」
しばらくすると、イーリカがいつものように淹れたての薬草茶が入ったカップをノアの前に置いてくれる。
ノアはじっとイーリカを見つめる。でも、
「何か?」
そう言って、彼女は小首を傾げるばかりだった。
その態度にノアはまるで直視するのを避けるように、無意識に視線をそらす。
「いいや、ありがとう」
一言交わすも、会話は続くこともなく、イーリカはすぐにカウンターの中へと戻る。
そのあと、ノアの眠りに作用する薬草茶の準備に取りかかり始めたようだった。
ノアはカップに口をつけながら、そっと彼女の様子をうかがう。
そのとき、ふいに視線を感じた。
顔を向けると、床に寝そべっている二匹の犬がじっとノアを見つめていた。
そこににじむのは、今まで向けられたことのない警戒心だった。
ノアはたまらず椅子から立ち上がると、イーリカのいるカウンターに近づく。
「この間のこと、ずっと考えてた──」
勇気を振り絞って切り出す。しかし、
「この間のこと?」
イーリカがきょとんと見返す。
ノアはぐっと言葉に詰まりながらも、なんとか続ける。
「きみは僕に、もうここには来ないでほしいという意味のことを言った。でも受け入れられない僕は、『僕たちは友達だ』と言って──」
「こ、来ないでってわたしが⁉︎ それに、と、友達──⁉︎」
ノアの言葉をさえぎったのはイーリカだった。
信じられないとばかりに、その目を大きく見開いている。
「大切なお客さまに、来ないでなんて言うわけないわ。それにわたしとあなたが友達だなんて……、だってあなた貴族でしょう?」
ノアは思わず眉間にしわを寄せる。
「ねえ、イーリカ、さっきから……」
「な、なんで、呼び捨て⁉︎」
さすがにノアも冷静ではいられなくなり、声に苛立ちをにじませる。
「なんで? 僕がそう呼んではいけない? ハンスにだってそう呼ばせてるじゃないか」
閉じ込めていた子どもじみた気持ちを、思わず吐き出してしまい、すぐに後悔する。
しかしイーリカがさらに目を瞬かせ、
「あなた、ハンスと知り合いなの?」
と尋ねるものだから、ノアは頭を抱えた。
(さっきからイーリカと話が噛み合わない気がするのはなぜだ)
ノアは息を吐き出し、確認するように、
「ハンスと僕が知り合いかどうかはさておき、商談で顔を合わせたことはある。そしてこの店でも会った。そのときにきみはハンスから、僕が『ノールドアルト・タウフェンベルク』だと聞いたはずだ、そう自分で言ってたじゃないか」
その瞬間、イーリカの手から匙がすべり落ち、床に落ちてカシャンッと音を立てる。
さっとイーリカの顔から笑みが消える。
「……大変失礼いたしました。まさかこの土地を治めるタウフェンベルク伯爵家の方とは知らず、無礼な口の利き方を……」
ノアはより一層眉間のしわを深くし、表情を固くする。
「やめてくれ。なぜ今また態度を変えるんだ?」
「タウフェンベルク伯爵家の方とは、存じ上げなかったものですから──」
「それは一か月前の話だろう? ついさっきまでは砕けた態度で接してくれてたじゃないか。態度は変えないでほしいという、僕の言葉を受け入れてくれたからじゃなかったのか?」
「受け入れるなんて、そんなことあるわけ──」
そうイーリカが言いかけたが、ノアが向ける視線の鋭さに彼女は思わず口をつぐむ。
ノアは悲しげに首を振る。
「もちろん最初は、僕が無理やりお願いしたところもあるかもしれない。でもきみも少しずつ慣れてくれてた。僕の好きな薬草茶をいつでも淹れると言ってくれた。僕のつらい過去の話にも真剣に耳を傾けて『無事戻ってこられてよかった』とまで言ってくれた。家名を明かしたあとで態度を変えないでほしいというのが、きみにとってどれだけ受け入れにくいことかはわかっているつもりだ。でも、それでも僕は……」
ノアはイーリカの黒水晶のような灰褐色の瞳をじっと見つめる。
しかしその瞳に浮かんでいたのは、包み込んでくれるような穏やかさではなく、困惑の色だった。
「申し訳ありません、何か勘違いされていらっしゃるのでは……。確かにご依頼を受けて、眠りに作用する薬草茶をお作りしていますが、そのようなことは……」
イーリカが発したその言葉に、ノアは絶望的な気持ちになる。
「もしかして、からかってる? それならこんなひどい態度はないな」
抑えきれず嫌味を含んだ言葉が漏れる。
目の前にいるのは確かにイーリカなのに、自分が知っているイーリカはどこにもいなかった。
イーリカの手元には、作業途中の眠りに作用する薬草茶がある。
(僕のために作業してくれている姿を見るのが、好きだったのに──)
そのとき、ノアの胸にすとんと落ちるものがあった。
(ああ、そうか──)
そして苦しげにぎゅっと拳を握りしめる。
ゆっくりと体の向きを変えると、
「その薬草茶は、あとで家の者に取りに来させる。すまないが、用事を思い出したから失礼する」
そう言って、帽子を手に取ると店を出た。
足早に石畳の通りを進みながら、帽子のつばを引き、顔を隠す。
自覚してしまえば、こんなにはっきりしていたのだと、自分の無自覚さに愕然とする。
(──僕はひとりの女性として、イーリカのことを好きになっていたのか)
そのときになって初めてノアは自覚した。
しかし同時に、その想いに重く蓋をする。
先ほど目の当たりにした、イーリカの困惑した瞳と明らかに距離を置いた態度がノアの心を凍りつかせる。
もうあの花がほころぶような笑顔が見られないと思うと、胸が引き裂かれそうだった。
でもそれがイーリカの出した答えだと思うと、ノアは唇をきつく噛み締めるしかなかった。
次から第五章に移ります!
ノア視点がしばらく続きます。過去の出来事とイーリカとの出会いが明らかになります……!
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