20_手放した恋心(3)
その日の夜、黒い森の小屋の中。
「ライト、ちょっといい……?」
イーリカは床に寝そべっているライトに声をかけた。
ラブラは黒い森の中にある泉に体を清めに行っている。
きれい好きのラブラに比べると、ライトは少々ズボラな性格をしていた。
ライトはぴくんと耳をそばだて、
「何だ?」
と目だけイーリカのほうに向ける。
イーリカはライトの前で膝をつけて屈むと、手のひらをそっと開いた。
そこには黒色の小瓶があった。
ライトはちらりと小瓶を確認したあと、前足で頭をガリガリと掻く。
「……いいのか?」
かすかに予感があったのか、ライトはイーリカに静かに確認する。
イーリカは苦しげに顔を歪める。
一度気づいてしまったノアへの恋心は、消えるどころか、日を追うごとに増すばかりだった。
恋に疎いイーリカは、かつて街で恋の話に花を咲かせる女の子たちを横目で見ては、あんなにも表情を輝かせることのできる恋は何て素敵なものだろうと思っていた。そして同時に自分には縁遠いものだと。
しかし恋は胸を焼くほどつらいものだった。
あの日、ノアの口から改めて『ノールドアルト・タウフェンベルク』だと告げられた日、言い争いのような会話になってしまった。
それからもう二十日以上が過ぎていた。
(会えなくなることを望んだのは、わたしじゃない……)
それなのに、立ち去る間際のノアが『また来る』と言ってくれた言葉に、淡い期待を抱いてしまっている愚かな自分がいる。
でも再びノアの顔を見て、自分はこの思いを隠せるだろうか。
ベルーナというきれいな令嬢と手を取り合い、肩を並べ、自分に見せてくれたようなあの微笑みを浮かべて歩く彼の姿を見ても、本当に心の底から祝福できるだろうか。
ひどく自分がいやな人間になった気がした。
こんなにも誰かを疎ましく思い、自分の存在を否定したくなったことはなかった。
自分が魔女でなければ、少しは違っただろうか……。
そんなことまで考えてしまう自分がいやだった。
それは自分だけでなく、母を、祖母を、誇りを持って受け継いできたものすべてを否定することだ。
そもそも街で小さな薬草茶店を営んでいる娘が、彼のような人と知り合えただけでも奇跡なのだ。
大切なお客さまと店主、それだけを胸に、ひっそりと生きていけばいい。
──そこに恋はいらない。
イーリカはライトの問いかけに静かに頷き、震える唇で吐き出す。
「こうするのが一番いいのよ」
「……あんたはそればっかりだな」
ライトがぽつりと言う。
「……記憶を、心を探られるって、すっごく気持ち悪いんだぞ。いやなんだぞ。それにイーリカは魔女だから、小さい頃から俺たちの光に触れてる。だから俺はすっごく力を込めなきゃなんないし、ずっとずっと深く潜らなきゃ、おまえの記憶に触れられない。それは……、痛みを伴う、それでもいいのか?」
決意の変わらないイーリカはすぐにこくりと頷く。
「……俺はイーリカに従う。俺と契約したのはあんただから」
ライトは悲しむようでいて、苛立ちを押し堪えるように顔をしかめて言った。
イーリカは悲しみを堪えるように笑おうとする。
自分にはライトがいる。ラブラもいる。薬草茶を求めてくれる人も、魔女としての自分を頼ってくれる人も……。
それ以上に望むものは何もない。
イーリカは立ち上がり、白湯が入ったカップを手に取ると、ライトの前に戻ってくる。
黒い小瓶からひとさじすくいとった液体をカップに注ぐ。
そしてゆっくりとカップに口をつけ、くっと飲み干した。
「じゃあ、いくぞ」
その声を合図に、イーリカはライトのその不思議な七色を帯びる瞳をじっと見つめる。
ライトが力を込めると同時に、その光の陰影がだんだん濃くなる。
イーリカの意識がぼんやりとしてくる。暗闇の中で淡青色にも青緑色にも黄色にも、幾重にも変化する蝶の羽のような鮮やかな色彩が広がり始める。夜空を眺めているような、それでいて見たことのない星々が無数に煌めく。
初めて目にする光景に、イーリカはただ純粋に美しさを感じていた。しかし、
(初めて──?)
ふと、なぜか違和感を覚えた。
以前にも見たような……。いやそんなはずはない。相反する言葉が交錯する。
だってこれは、忘却の薬なのだから──。
魔女の秘密が漏れる危険が迫ったときにのみ使うことが許されている、魔女の秘薬──。
誰かに使うだけじゃなく、ましてや自分に使うなどあるはずがない。
そもそも秘薬は二度までしか口にしてはいけない決まりがあるくらいなのだから。
しかしなぜ二度までなのかは、イーリカは知らない。
亡くなる数年前にそれをイーリカに教えてくれた母親のカミラすらも知らないと聞いている。代々言い聞かされてきているのは、いけないということだけだ。
イーリカの意識は、どんどんと暗闇に沈むように深く潜っていく。
と同時に、頭の中を探られるずくりとする嫌悪感に襲われる。体の内側からナイフを突き立てられるような鋭い痛みがイーリカを覆いかけた、そのとき。
「──ちょっと! 私はやらないでって言ったわよね!」
(ラブラ……?)
まるで水中から音を拾うような、くぐもったラブラの声がする。
ついで聞こえたのは、ライトの声だ。
「俺は『イーリカ次第だ』って答えたぞ。イーリカが望むなら、俺はそれを叶える。またあんな苦しそうな顔をしているイーリカは見ていられない。なんだってイーリカばっかりつらい目に遭うんだ⁉︎ こんなにも誰かの役に立ちたいって思ってるのに!」
「私だってそうよ! イーリカがつらいのはいやに決まってるでしょ!」
叫ぶようなラブラの悲しげな声がする。
(やめて、けんかしないで。わたし、ふたりがそばにいてくれるなら平気よ……。目が覚めたら笑顔になるから……)
イーリカの頭の中では、ノアとの思い出が、出会いから順番に思い起こされていた。
──自分が大切にする薬草茶店を、ノアは『あの場所は落ち着く。あと懐かしい感じがする』と言ってくれた、あの瞬間、自分がとてもうれしく感じたこと。
──過去の誘拐事件を打ち明けてくれて、『魔女の本当の姿は違うのかもしれない』という言葉で、救いをもたらしてくれたこと。
──タウフェンベルクの家名を知って、近づけない距離を感じたこと。
──『……僕たちは友達だ、違う?』と言われて、ひどく傷ついている自分がいて驚いたこと。
──どんな迷惑がかかるかわからないから、店にはもう来ないでほしいという言葉を告げたのに、『ここに来るなと言うなら、それはやめてほしい』と、これからも店に通いたいと言ってくれたこと。
──そのあとに現れたノアの婚約者という令嬢によって、恋を自覚してしまったこと。
それらを含む、すべての記憶は黄金色に輝く一本の糸でつながっていた。
糸は漆黒の闇の中、大空にたゆたう細い雲のごとく、ふわりふわりと漂っている。
ふいにプツン──、と黄金色の糸が切れた。
さらにまた別のところでも、プツン──、と切れる。
両端を断ち切られた糸は、徐々に光を失い、ゆっくりと闇の中へ落ちてゆく。
それらは、イーリカに芽生えた恋心の記憶──。
そこへつながる、心が動いた記憶──。
イーリカが、ライトに、消してほしいと伝えた記憶の断片……。
黄金色の切れた糸端同士は、まるで意志をもっているかのように、するするとお互いを結びつき始め、やがて何事もなかったかのように一本の糸に収まる。
本当ならノアにかんすることすべてを手放すのが一番いい。でもそうなると、眠りに作用する薬を作ってあげられなくなるかもしれない。
だからイーリカはあえて、大切なお客さまと店主の関係に戻るため、ひとつひとつ消してもらう道を選んだ。
(──恋なんて、知らなければよかった……)
イーリカは、薄れゆく意識の中で、つぶやく。
その後、イーリカはストンと落ちるように、漆黒の闇の中へと意識を手放した。
次に目覚めたときには、イーリカの中で芽生えた恋心は完全に失われていた──。
次話は、ノアの視点で気持ちが語られます…!
夜くらいに投稿できればと思います!






