02_アシュ薬草茶店
王都の東部に隣接する、広大な領地を有するタウフェンベルク領。
海に面している南部は海運業が盛んで、北部は良質な鉱石が採れる鉱山があることでも有名だ。
鉱山よりも北には、黒い森と呼ばれる、人も滅多に立ち入らない濃い緑が鬱蒼と茂る大きな森が広がっている。
タウフェンベルク領地の中央、やや西に位置するのが、首都レッセン。
レッセンは王都とそのほかの領地との貿易の中間点でもあるため、貿易都市として古くから栄えてきた歴史がある。
さらに北西部には、国教のヴェロルト正教会が管轄する独立自治区であるヴェロルト区と隣接しており、領民は信心深い者が多いことでも知られている。
ヴェロルト区は王都の北東部にも接している。国の祭事を執り行う際には、国王自らヴェロルト区内にあるヴェロルト教の総本山、ヴェロルト大聖堂へ出向く慣例があるほど、歴史的にも教会と王家のつながりは深い。
首都レッセン、その街の一角に、アシュ薬草茶店はあった。
ほかの店よりもひと回り以上こじんまりとした店内は、使い込まれた木棚が壁一面を覆い、その棚には所狭しと大小様々なガラス瓶や壺、保存缶などが並んでいる。
店内を見回せば、木製の簡素なテーブルと椅子、そして出入り口の扉の正面、店の奥側には木棚と同じく年季の入ったカウンターがある。
カウンターの中では、今年十七歳になったばかりのまだあどけなさが残る少女、イーリカ・アシュが、ひとり忙しなく動き回っていた。
焦げ茶色のダークブロンドの髪に、黒水晶のような灰褐色の瞳、全体的にぼんやりとした見た目だと自分では理解している。
イーリカは三年前に亡くなった母から、このアシュ薬草茶店を引き継いだ。
幼い頃から母の手伝いはしていたものの、ひとりでの店の切り盛りは想像以上に難しく、何度も挫折しそうになった。
そのたびに母親から引き継いだ店を守ること、自分が調合した薬草茶で悩みを抱える人の役に立てることを拠り所に、懸命にやってきていた。
それでも最近ではようやく仕事にも慣れ、効率よく作業をこなせるようになっていた。
「イーリカ、一昨日に頼んだ分できてるか?」
あいさつもなく店に入ってくるやいなや声をかけてきたのは、バーンズ商会の次男坊、ハンスだった。
街に数ある商店の中でも一際小さなアシュ薬草茶店だが、今では薬草茶の効果を実感してくれた貴族の屋敷へ定期的に卸せることも増えてきていた。
それもこれも母が生きていていた頃に、ハンスの父親が経営するバーンズ商会がアシュ薬草茶店の薬草茶に目を留めてくれたのがきっかけで、特別に取り扱うことを申し出てくれたからだった。
そしてここ数年は、次男坊のハンスが担当するようになったようで、こうして商品を直接取りに来ている。
「ええ、できてるわ」
イーリカはカウンターの下から、正方形の黒い缶と青い缶を取り出す。
それぞれカウンターに置き、まずは黒い缶を指差しながら、
「はい、グレイスさまの分。こっちはいつもの冷え性に効く分よ」
そう言ってから、次に青い缶に触れ、
「あと最近、腰痛がつらいとおっしゃっていたわね? こっちは腰にも効くように調合してあるわ。よろしければお飲みくださいと伝えてちょうだい」
ハンスはそれぞれの缶を手に取って確認する。
「ああ、わかった、伝える。ほかには?」
「ないわ。届けた際にグレイスさまが何かおっしゃっていたら教えて」
「了解。お前の薬草茶を飲んでからは、ずいぶん冷え性が楽になったって、毎回言ってるぜ。おかげでほかの商談もうまくいくから助かるって、親父も言ってた」
イーリカは手を止め、そっと胸を撫で下ろす。
「そう……、お役に立ててよかったわ」
ハンスはちらりとイーリカを見やり、
「なあ、ところで──」
と言いかけたとき、
「おい、ハンス! またここにいたのか!」
店の扉を乱暴に開けて、青年三人組がにやつきながら顔を覗かせている。
途端にイーリカは顔を強張らせる。昔からイーリカをことあるごとにいじめてくる顔ぶれだった。
彼らはケラケラと笑いながら、
「薬草茶なんて怪しげなもん、誰が買うのかね!」
「バーンズ商会が取り扱っても、俺の家の商船では扱いたくないね。父上も気味悪がってたぜ」
「薬草なんて、まるで魔女みたいだな! これで黒髪だったら本当に魔女だって疑われたかもな! ハハハ!」
言いたい放題口にする彼らは、街では名の知れた高級仕立て屋や商船、宝石商などの商いを営む家の息子たちだった。
ハンスはバツが悪そうに、
「仕入れで寄っただけだ。もう帰るさ!」
そう言って、イーリカには一瞥もくれず立ち去っていった。
「あーあ、やだやだ!」
「ほんと! 男の嫌味なんて聞いてられないわ!」
そう言って店の奥から出てきたのは、見た目がそっくりな二匹の黒い犬だった。
ビロードのような漆黒の毛並みに、すらりとした体躯、ピンと伸びた耳。
黒い瞳は光の反射で淡青色にも青緑色にも黄色にも見える、蝶の羽のような不思議な色彩をしていた。
「ライト、ラブラ」
イーリカはふっと肩の力を抜いて振り返り、二匹の名前を呼ぶ。
「イーリカ、いつでもあいつらの尻に噛みつく準備は整ってるぜ。ほんと昔から気に食わない連中だぜ」
「あらやだ、お尻じゃなくて頭からかぶりついてやりなさいよ」
オスのライトがそう言いながら、ぐわっと大きく口を開いて見せ、台所から持ってきたりんごを丸かじりする。そのあとで恐ろしいことをさらりと言ってのけるのは、メスのラブラだ。
「いいのよ、言いたい人には言わせておけば」
首を横に振りながら、イーリカは漏らす。
それでこそ昔から何度も止めてと訴えてきた。
しかしそれすらも彼らにしてみればからかいの対象になり、より一層イーリカをいじめてくるのだった。
そのことに気づいてからは、反応することすら諦めた。街の中でも裕福な彼らにあえて対抗する人はおらず、母親亡き今はイーリカをかばってくれる人もいない。
同性の友達でもいれば少しは違ったかもしれないが、幼少期にイーリカがいくら努力しても、同年代の女の子たちの輪に加われることはなかった。幼いイーリカの人見知りが原因ではなく、イーリカが薬草茶店の娘だと知った女の子たちの両親がとたんに気味悪がり、すぐに手を引いて遠ざけるからだ。
しかし薬草茶を敬遠する人ばかりではない。
その効果をきちんと肌で感じてくれている人はいる。
だからこそお客さまが薬草茶を求めてくれるのはうれしいし、役に立ったと言ってもらえるだけで、イーリカは励まされるのだった。
「ま、気にすることないさ。あんたはあんたのやりたいようにしたらいいんだから」
ライトが慰めるように、イーリカの靴のつま先に前足をぽふっとのせる。
「ええ、そうよ、あなたがこの店をこうやって継いでくれてカミラも喜んでるわ」
慈愛を込めた瞳でラブラが言う。
カミラはイーリカの母親の名前だ。ラブラは元々カミラの犬だった。だからラブラは生まれたときからイーリカを知っている。
「ふたりとも、ありがとう」
イーリカは家族でもあるライトとラブラに微笑みを向けて言った。
二匹は柔らかく目を細める。
犬の姿をしている二匹だが、その本性は犬ではない。
イーリカとこうやって会話ができるのもそのためだった。犬の姿は人の世に合わせた仮の姿にすぎない。
──イーリカには、秘密があった。
誰にも知られてはならない秘密だ。
それはイーリカだけでなく母も、祖母も、古よりずっと受け継がれてきたことだった──。






