19_手放した恋心(2)
その日いつものように、イーリカはミュンスター子爵家の老婦人、アマンダのもとを配達で訪れていた。
通された応接間。目の前のテーブルには、かぐわしいにおいのする紅茶と焼きたてのブルーベリー入りビスケットが並んでいる。
しかしそれらを口に運ぶイーリカは、まるで砂を噛んでいるように感じていた。
その様子に目を留めたアマンダが言う。
「珍しいこともあるものね、風邪かしら?」
ぼうとしているイーリカの額に、アマンダの少ししわがれた手のひらが触れる。
はっと意識を戻したイーリカは、慌てて頭を下げる。
「す、すみません」
「今日はもうお帰りなさい。体調が悪い日は、配達は無理をしなくていいのよ?」
アマンダが目尻を優しく下げ、娘のように可愛がるイーリカを気遣う様子を見せて言った。
「すみません……」
いたたまれなさを感じ、イーリカはますます身を縮こまらせる。
そのあと、わざわざ玄関ホールまで見送ってくれるアマンダにイーリカは重ねてお詫びの言葉を述べる。
屋敷をあとにする間際、イーリカは無意識にアマンダを引き留めていた。
「あの……」
アマンダは、微笑みを浮かべたまま、何かしら? というふうに首を傾ける。
イーリカは口を開き、また閉じて、ようやく意を決したように一息に尋ねる。
「あの、アマンダおばさまは、タウフェンベルク伯爵家とご懇意にされていらっしゃいますか?」
アマンダはわずかに驚きの色を示す。
イーリカはアマンダが貴族であることを十分すぎるほど理解している。イーリカがその一線を越えないよう配慮しているのを、アマンダは常日頃から気づいていた。それを寂しく思ってはいたが、無理強いできるものではない。そのためアマンダから貴族の話題を持ち出さない限り、イーリカから身分差のあるアマンダの交友関係を尋ねるなどいまだかつてなかった。
よほどの理由があるのか。アマンダは好奇心に駆られたが、それを表には出さず、さりげなく答える。
「そうね、夫が亡くなってから、私は夜会などにはほとんど顔を出してはいないけれど、交流はありますよ。相手はこのタウフェンベルクを治める伯爵家ですからね」
イーリカは、手提げのかごを持つ指先を所在なさげに動かしたあとで顔を上げると、
「……あの、タウフェンベルク伯爵家と、お隣のヴィルリート伯爵家がご婚約されたというお話は……?」
「ご婚約? 両家が?」
アマンダは目を瞬かせたあとで首を傾げ、曲げた指先をあごに当てる。
「そんな話、耳にはしてないけれど……、でも家格的には妥当でしょうねえ。イーリカさんはご存知かしら? この国では、爵位を持つ者の結婚に際しては王家の許可が必要よ。家格が同じで交流も深く、さらに年の近い異性の子どもがいるとなれば、両家で縁を結ぶことはこの国にとっても有益になるわ。だから王家の許可も下りやすいと言われているのも事実よ。確かタウフェンベルク伯爵家のご子息とヴィルリート伯爵家のご息女はお年も近かったはずだから、そういう意味ではあり得る話だと思うわ」
アマンダは事実を述べる。
ふとイーリカに目をやると、彼女が一瞬苦しげに眉根を寄せたように見えた。だがそれはすぐに消え、ぱっと明るく表情を変える。
「えっと、たまたま噂を耳にして、そうなると街中盛大なお祝いになるかしら、とちょっと興味が湧いたんです」
イーリカがやけに早口で言う。
なんとなく違和感を覚えながらも、アマンダはイーリカが初めて示す恋への興味に少しばかりうれしくなり、声を弾ませる。
「あら、今日は本当にめずらしいこと続きね。あなたがそんなことを口にするなんて。ええ、そうね、現当主のご婚約時は、それは盛大にお祝いされたものよ」
「そうなんですね。すみません、アマンダおばさま、お引き留めしてしまって。では失礼いたします」
イーリカはそう言って、足早にミュンスター子爵家をあとにした。
そのあと思い足取りで帰り道を進みながら、イーリカはある決意を胸に固め始めていた。






