12_黒い森の魔女(1)
深い森の木々の合間を縫って、ホーホーとフクロウの鳴く声が響いている。
暗闇にひどく怯えながら、中年の女がひとり、森の中を進んでいる。
先ほどまで煌々と照らす満月が見えていたのに、辺りはいつの間にか霧に覆われていた。
頼りになるのは手元のランタンの明かりだけ、それでも数歩先もままならない。
本当にたどり着けるのだろうか。女は不安にかられ、着込んでいるローブの前をかき合わせる。
それもそのはず、女が足を踏み入れているのは、幼い頃から言い伝えで聞いている恐ろしい黒い森なのだから。
一歩間違えれば迷ってしまい、二度と首都レッセンの街へは戻れないかもしれない。いやそれよりも、これから向かう先で──。
最悪の事態を想像してしまう女の背筋を、冷たいものがぞくりと這う。
それでも自身が仕える主人のために、気持ちを奮い立て、先を急ぐ。
どのくらい進んだだろうか。
辺りを覆っていた霧が突風でも吹いたようにサーと引いた。
かと思えば、暗闇の中、唐突に金色にぼんやりと光る一本の切り株を見つけたときには、女は驚きのあまり腰を抜かしそうになった。
それはまさに、黒い森の言い伝えに聞いていたとおりだった。
言い伝えは恐ろしく思う反面、周囲の大人たちが子どもに言い聞かせるため、ただの昔話を誇張したものだと、その彼女だけでなくほとんどの大人はそう思っていた。
しかし嘘ではなく、まぎれもなく本当だった。
目の当たりにする光景に、女はごくりと生唾を飲み込む。
恐る恐る近寄り、切り株の中央に生え出て間のない小さな草木の芽があるのを見つける。
不思議なことに、その草木の芽も切り株と同様に金色に光っていた。
畏怖のあまり呼吸をするのも忘れそうになりながら、女は吸い寄せられるように手を伸ばし、指先でその草木の芽に触れた。
──それは、瞬きをするわずかのことだった。
次に女がまぶたを開いたときには、さっきまでは鬱蒼と繁る森の木々しかなかったにもかかわらず、目の前には古ぼけた一軒の小屋があった。
小屋のガラス窓からは、ロウソクの淡い光が外に漏れ出ている。それは誰かが中にいることを意味していた。
女は信じられない思いでまぶたを何度もこすり、周囲を見回し、凍えている頬をつねり、やっとのことでひとり頷くと、そっと小屋へと近づく。
震える両の手をこすり合わせ、深呼吸を何度も繰り返す。
ずいぶんと時間が経ってから、ようやく意を決して小屋の扉を数度叩く。
すると間もなく、そっと扉が開かれた。
その瞬間、女はひっと息を呑む。若い女なら気を失っていたことだろう。
そこに立っていたのは、闇のような黒いローブを身に纏った、──魔女だった。
「……どうぞ、中へ」
そう言って促す声はガラガラでも、しわがれてもいなかった。
魔女なのだから、女であることには間違いない。
しかし魔女は常人よりもはるかに長い年月を生きるという。
女は恐る恐る魔女に目をやるが、丈の長いローブに覆われた姿はまったくもってうかがいしれない。
「……ご用件をおうかがいいたしましょう」
魔女が静かに言った。
女ははっと肩を震わせ、本来の目的を思い出す。
手にしたかごの中から一通の封書を取り出すと、ぶるぶると震えながら魔女に差し出す。
それは女が仕えている夫人から預かった、魔女へ宛てた依頼の手紙だった。
手紙を受け取る際にローブの隙間から伸びた魔女の手は、まるで少女のように真っ白で滑らかだった。
逆にそれが女には恐ろしく感じた。
年をとらないというのは本当かもしれない、と背筋が凍る。
開けた封書の中身を読み終えた魔女はひとつ頷く。
「承知いたしました。ご用意しますので、しばしお待ちください」
そう言って使い古された椅子のひとつに、女を座らせる。
それからどのくらい時間が経ったのだろう。
女は極度の緊張にさらされ過ぎたせいで、意識を保つ糸が一瞬切れてしまい、あろうことか居眠りをしてしまっていた。
「……お待たせいたしました」
そう魔女の声がしたとき、椅子から体が浮くほど飛び上がった。
魔女は何事もなかったかのように淡々と、
「お客さまは近々ご出産を控えておいでということで、こちらがお求めの品の『浄化の薬』でございます」
そう言って淡い水色の小瓶を女に手渡す。
「ご出産されるお部屋の中にまんべんなく振りかけてください。清らかな空気が安産を促し、赤子をさらう魔を追い払うでしょう」
まるで毒薬でも入っているかのように、女は恐る恐るそれを受け取る。
軽いはずの小瓶がやけにずしりと重たく感じた。
「それと……」
魔女が付け加えながら、何かの草花を乾燥させたものを女に差し出す。
かさりと乾いた音を鳴らしたそれは、細い枝先に淡い紫色の小花が穂状についているものだった。強く触れればもろく崩れてしまいそうだ。
女は眉間にしわを寄せ、思わず怪訝げに魔女を見やる。フードに隠され相手の顔はまったく見えない。
「無事ご出産されたのちには、赤子のゆりかごにこれを吊るしてください。お守りになります」
その一瞬、フードの奥でかすかに空気がやわらかくなったのは気がして、女は目を瞬かせた。
これがあの噂に聞く『悪しき魔女』なのだろうか……。
女がそう思うのも無理はなかった。
巷で噂される魔女といえば、若い娘をさらって悪魔の生贄にしているとか、人間の生き血を混ぜた秘薬を作っているとか、意のままに操る呪いをかけて挙句の果てに命を奪うとか、恐ろしい噂ばかりだったからだ。
女はその何だかわからないお守りも受け取り、握り潰してしまわないよう大事に持つ。
「……ありがとう、ございます。奥さまもお喜びになると思います」
目をさまよわせ、ずいぶんためらったあとで素直に礼を述べた。
女の主人は赤子は望めないだろうと言われていた身体だった。しかし幸いにも命を授かり、その初めての出産にとても不安を感じていた。それこそ魔女の秘薬を頼り、女に懇願して黒い森へ使いに出すほど。
主人に恩のある女はその切実な頼みを断り切れずやってきたのだったが、手にしたこの魔女の秘薬とお守りがあれば本当に主人が心安らかに出産を迎えられるだろうという、不思議な安堵感を今は抱き始めていた。
そこで女はハッと、腕にかけていたかごの存在を思い出す。
「あの、こちらを──。中にお礼の品々が。奥さまからです」
そう言って、魔女にかごを差し出す。
魔女は驚くほど礼儀正しく頭を下げ、かごを受け取る。
「ありがたく頂戴いたします。それと、ここでのことは決して他言なさいませんように。では、気をつけてお帰りくださいませ」
リンッ──、と澄んだベルの音をさせ、魔女が扉を押し開いた。
用事を済ませた女は魔女の気が変わらぬうちに退散しようと、そそくさと一礼し、急いで扉をくぐる。
そしてまた瞬きをしている一瞬で、先ほど見たあの切り株のところまで戻ってきていた。
しかし切り株はもう光っておらず、どこにでもある普通の切り株だった。
切り株の上にあった、あの生え出て間のない草木の芽も消え失せていた。
──まるで夢のようだった。
でも確かに、女の手には魔女から受け取った小瓶とお守りと言われた乾いた草花の枝あった。
もしかしたら自分の命さえもとられるのではと女は恐れていたが、こうして無事だったことに深い安堵のため息を漏らす。
そしてまだ信じられない思いでふらつきながら、黒い森の中を来た道を引き返し、帰路についたのだった──。
次話の13話も、夕方〜夜に投稿できればと思います!ご覧いただけるとうれしいです!






