10_過去の傷と救い(2)(ノア視点)
打ちつける雨が、自分と目の前の少女をこのこじんまりとした店内に閉じ込めているかのようだった。
焦げ茶色のダークブロンドの髪と黒水晶を思わせる灰褐色の吸い込まれそうな瞳を持つ、まだあどけなさの残る少女。
ある日、執事のヘンリーが持ち帰ってきた薬草茶を飲んだとき、どことなくその味に懐かしさを覚えた。
その頃の自分はもう何年もきちんと眠れない日々を送っていた。
眠りにつくと決まって悪夢に苛まれるのだ。しかし目覚めたとき、悪夢を見たことは覚えているのにどんな夢だったのかは思い出せない。
大事にはしたくなくて私的に呼んだ医師に診てもらい、薬も処方してもらったが、それでも安眠を取り戻すことはできなかった。
だんだんと眠ること自体が苦痛になっていったが、それでもわずかでも眠らなければ今度は体がもたないという悪循環だった。
そんなときは仕方なく、体に負担がかかるのを承知で重い薬を服用し、強制的に眠るようにしていた。
しかしそれもそろそろ限界を迎えそうなとき、不思議な薬草茶に出会った。
どことなく懐かしい味がするその薬草茶を飲んだ夜、本当に数年ぶりに悪夢を見ずに眠れる時間がとれたのだった。
一晩中でないにしろ、それは奇跡に近かった。
その事実に、唯一事情を知るヘンリーは涙を浮かべて喜んでくれた。そしてこの薬草茶は街の一角にあるアシュ薬草茶店の少女が作ってくれたものだと教えてくれた。
それからというもの、毎晩薬草茶を飲んで寝るのが習慣になり、少しずつでもとれる睡眠のおかげで体調も前よりよくなっていった。
気づけば、薬草茶は自分にとってなくてはならないものになっていた。
そしてそろそろ茶葉が切れそうになった頃、自分でその店を訪れてみたくなった。
ヘンリーには内緒で訪れた当日、あいにく店は開いておらずどうしようかと思っていたところ、折りよく店主と思われる少女が帰ってきた。
少女と初めて会ったとき、薬草茶を飲んで感じた懐かしい気持ちがより鮮明になった。知らないはずなのに、少女の満面の笑みがまぶたの裏に広がった気がしたのだ。
そして少女が営む薬草茶店に足を踏み入れると、途端にノアを包み込んだのは深い安堵だった。
店内に漂う薬草の独特の匂いと壁を覆う古めかしい木棚にびっしりと並べられた色とりどりの瓶や缶……。初めて嗅ぐにおいと馴染みのない光景にもかかわらず、それらは自分の心をそよ風が頬をなでるように落ち着かせた。
なぜだからわからないまま、気づけば忙しい合間を縫って、薬草茶店に通うようになっていた。
そうしてあとで思ったのは、自分の家名をイーリカに伝えていなくてよかったということだった。
初めて店を訪れた際は、ただ単に家名を伝えることで店側によけいな心理的圧力をかけるのを控えたいという思いもあり、それを口にするであろうヘンリーに席を外させたのだったが結果的によかったと思っている。
なぜなら、イーリカと会う回数、言葉を交わす回数が増えるほど、彼女にかしこまられた口調で話されることにどことなく違和感を覚える自分がいたからだ。
立場上、かしこまられるのは当たり前なのに、それが彼女になるとどうしてか落ち着かなかった。
だから偶然とはいえ、なかば無理やりにはなってしまったが、砕けた口調に変えてもらえたのは我ながらいい機会だったとノアは思っている。
そして、あの日、配達へ出かけるというイーリカを送っていったとき、
『横を並んで歩くなんて、何だか友達みたいだなって思って』
そう何気なく口にした彼女の言葉は、ノアの胸をちりっと引っかいたが、なぜそうなったのか、わからなかった。
しかしそのあとで、イーリカの満面の笑みを目にして、ひどく懐かしい思いに駆られたのだった。
そして今──。
「……いいの?」
そう不安げに尋ねる少女イーリカを前に、ノアはぼんやりとだが既視感を覚えていた。
以前にも同じやりとりを交わしたような気がしたのだ。
しかしすぐにそんなはずはないと首を振る。
「ああ、何となく聞いてもらいたい気分なんだ──」
ノアは素直に言葉を漏らしていた。
なぜこんな気持ちになったのか、そもそも気づけば兄のことを口にしていた自分にも驚く。
(まだ知り合って間もないのに……)
ヘンリーとの間でさえ、兄が亡くなって以来、もう何年も兄の話をしていない。
兄との懐かしい思い出はたくさんあるはずなのに、兄が自殺するまでの最後の一年の記憶がそのすべてを黒く覆い尽くしてしまっていた。
イーリカが椅子に腰をおろしたのを見届けて、しばらくしてから、ノアはぽつりと言葉を紡いだ。
「僕は昔、誘拐されたことがあったらしい」
唐突なうえに衝撃的な告白だったのだろうか、イーリカの息を呑む音が聞こえた。
ノアはそれ以上イーリカに衝撃を与えないよう、できるだけ悲観的な雰囲気を抑えて淡々と話す。
「らしいっていうのは、僕自身覚えていないからだ。でも周りの者が言うには、誘拐されてから三か月以上も行方不明になっていたらしい」
本当に誘拐されていたのか、記憶がすっぽり抜け落ちているノアは正直なところ、今でも半信半疑だ。
誘拐されたといわれる前日までの記憶は確かにあるのに、次に目覚めたときにはいつも通り自室のベッドの上にいたからだった。
でも息子を誘拐したという文書が屋敷には届けられ、父親は息子を取り戻すべく、その交渉に必死に当たっていたと教えられた。
いつもと変わりない日常のはずが、目を覚ますと両親とヘンリー、屋敷の者たちみなが涙を浮かべ、安堵の言葉を口にする様子にノアはただ困惑するしかなかった。
そのうえ、前日まではあれほど優しく自分を可愛がってくれていた兄が一夜で人が変わったように、まったく自分を寄せつけなくなり、笑いかけることもなくなってしまったのだ。
両親が言うには、弟であるノアが誘拐され、ひどく心を痛めたせいだということだった。
聡明で穏やかだった兄はどこにもいなくなり、ただ一日中部屋に閉じこもるばかり。誘拐事件のせいで兄が変わってしまったのなら、自分のせいでもある。どうにか前のようなやさしい兄に戻ってほしいと思い、懸命に話しかけるものの、兄は怯えるように避けるばかりだった。
一向に改善が見られず、ノアは兄と距離を置くしかなくなった。
「同じ屋敷内にいるのに、兄の顔はほとんど見ることもなくなった。そのうち本当に自分には兄がいたのか、優しい兄との思い出は自分の妄想だったのではと疑いたくなるほどだった」
そう言って、ノアは手元のカップに視線を落とす。
目の前のイーリカは身じろぎひとつせず、ただじっと自分の話に耳を傾けてくれている。それがありがたかった。
「僕の誘拐事件で兄が変わってしまってから、一年が経った頃だった。その日は兄の誕生日で、僕はせめてお祝いを伝えようと、兄の部屋を訪ねたんだ。しかしそこにいたのは、首を吊って変わり果てた兄の姿だった──」
当時の記憶がよみがえり、ノアはぐっと拳を握りしめる。
「呆然と僕は立ち尽くしていた。ふと床に一通の手紙が落ちていた。宛名には僕の名前が書いてあった。恐る恐る開けてみると、殴り書きのような文字で、
『私のことを恨んでいるんだろう。忘れたふりをしているのか。最低の兄だと、あれだけお前のことを可愛がっておきながら、いざとなれば最低なことができる人間だと蔑んでいるんだろう。
いつだってそうだ。優秀なのはお前のほうで、私はいつお前に抜かれるのかと恐れるばかり。あんなことが起こっても幼いお前は冷静だった。あの日のことを暴露してもいいのか、と欲深いあいつらは蛇のように私を追いつめる。いっそお前が真実を打ち明けて、罵ってくれればどんなに楽だったか。私は、もう疲れた──』
そう書いてあった……」
そしてその手紙は駆けつけた使用人たちに見られる前に、ノアはポケットに押し込んで自分だけの秘密にしたのだった──。
いつの間にか雨は小雨になっていた。
あれほど響いていた雨音は消え、しとしとと地面を濡らしている。
ノアは目の前のイーリカを見つめる。
彼女はまるで自分が受けた苦しみのように唇を噛み締め、涙を堪えていた。
ノアは手を伸ばし、イーリカの唇にそっと触れる。このままでは切れてしまいそうに見えた。
目を瞬かせたイーリカがぱっと顔を伏せる。
離れた指先になんとなく名残り惜しさを感じながら、ノアはぽつりと漏らす。
「……魔女なら何か知っているのかな」
イーリカがはっと息を呑むほど驚いて顔を上げたので、ノアは多くの人々が魔女を恐れている事実を思い出す。
魔女には悪い噂が絶えずあり、若い娘をさらって悪魔の生贄にしている、人間の生き血を混ぜた秘薬を作っている、さらには意のままに操る呪いをかけて命を奪うなど、そのせいでとくに女性ほど魔女を忌避する傾向にある。
ノアはイーリカを怖がらせないよう冗談だよというように微笑して、おとぎ話を語るようにあえて明るい口調で続ける。
「僕が誘拐されたとき、三か月以上も戻ってこない僕を心配したヘンリーが黒い森の魔女にお願いしてくれたらしいんだ。僕が『無事に戻ってきますように』って。昔ヘンリーの祖父君が子どもの頃に黒い森で迷子になったことがあったらしい。帰ってこない我が子を心配した母上は、魔女に『子どもが無事戻ってきますように』とお願いした。するとその翌日、嘘みたいだけど、森の麓ですやすやと眠っている男の子が見つかったんだ。その話を幼い頃に聞いていたヘンリーが、一縷の望みを託す気持ちで、僕のことをお願いしてくれた。すると、それまでどれだけ探しても見つからなかったのに、いつの間にか街のはずれの野原に倒れている僕を警らの人間が発見した。そして無事、屋敷へ送り届けてくれたんだ。……全部、目が覚めたあとに両親とヘンリーから聞いた話だけどね」
こうやって自分で話していても、空想の中の出来事に感じる。
「突拍子もない話だろう? きみには信じられないかもしれないけど……」
そうつけ加え、自嘲する笑みを浮かべる。
しかし目の前のイーリカは、小さく首を横に振っていた。
「信じるわ……」
そう言って向けられた彼女の眼差しは、ただひたすらまっすぐにノアを捉えていた。
「あなたが無事に戻ってこられて、本当によかった……」
黒水晶の灰褐色の瞳が揺れる。
彼女の言葉に、ノアは胸がじんわりとあたためられるような感覚を抱く。
気づけば、自然な微笑みを返していた。
「ありがとう」
そう言ってノアはカップに手を伸ばし、残りの薬草茶を飲み干す。すでに冷たくなっていたが、すんなりと口に馴染む心地よさがあった。
(まるで彼女のようだ──)
目の前の少女は自分に眠りの救いをもたらしてくれただけでなく、いつの間にかすんなり心の中に入り込み、こうして安らぎまでもたらしてくれる。
久しぶりに昔話をしたせいか、ノアはふとその当時、魔女が『悪しき魔女』と言われていたことに違和感を抱いたのを思い出す。
「……魔女の本当の姿は違うのかもしれない」
ぽつりと言葉が口をついていた。
あまりにおかしな言葉だったのだろう、イーリカが息を詰めたように驚き、こちらを凝視していた。
「これはあくまで、想像にすぎないけど」
ノアは微笑む。
「僕が無事に戻って来られたのは魔女のおかげかもしれないと、ヘンリーから聞いて以来、僕は家の書庫にある文献を読み漁ったんだ。今でこそ『悪しき魔女』なんて言われているけど、昔は『善き魔女』『善き隣人』と慕われていたと、多くの文献には書かれていた。だから僕は、魔女の本当の姿は違うのかもしれないって、昔考えたことがある。結局、そのときはそれ以上わからなかったけど、でも──」
続けそうになった言葉を飲み込む。
(つい昔話に引きずられて、よけいなことまで話してしまったな……)
そう思いながら、さぞ不審がられているだろうと、ノアはちらりとイーリカに目を向ける。
イーリカの瞳が瞬いた気がした。でもそれはすぐに消え失せ、彼女は顔を伏せていた。
焦げ茶色のダークブロンドの前髪がその表情を隠してしまう。
沈黙が続き、ノアが次の言葉を探し始めた頃、
「……わたしも、そう思うわ」
そうイーリカが小さく答えてくれたので、ノアはより一層、心が満たされるような気がしたのだった。
話が続いているので、このあと続きの11話もあとで投稿しようと思います!
ご覧いただけるとうれしいです!






