第15話
そうして、ノア様に案内されたのは丘を一望出来る1本の大きな木がある場所だった。
「まぁ、素敵」
思わず口から出た感嘆は、私だけではなくシエルや兄ケイトの口からも零れた。
「さぁ、こちらへ」
そう促された先には、シートが広げられてあり、座り心地の良いようにとクッションも用意してある。しかもしっかりと昼食の準備も整っていた。
「これは正しくピクニックですわね」
兄はこれを知っていたからこそ『ピクニック』と称したのだろう。ケイトを見やると相変わらずいたずらっ子のような顔してにやけている。いつまで経っても子供みたいな兄である。
「お心遣い、感謝致しますわ」
「外交の為に旅慣れしている私とは違い、ご令嬢にはクワンダ国までの道のりは大変なものでしょうからね。少しでも楽しい思いをして頂きたかったのですよ」
優しい心遣いである。私の恩人様というだけで好感度は高いのに、更に上げてくるなんて罪な人である。仕事の出来る男は一味違うね。
「こんなに良くして頂けるなんて思いもしませんでしたわ。何かお礼をするべきですわね」
そう思わない? とシエルに問いかけると、不意に重ねられた手をギュッと握り締められ、吃驚した私はノア様を見上げた。
「ノア様……?」
見下ろすノア様は満面の笑みだけれど、男性恐怖症が顔を出して言葉を失ってしまった。握り締められた手からじんわりと汗がにじみ出す。
「では、クワンダで開かれる夜会で、ダンスを踊る約束を頂けませんかね?」
「ダンスですか?」
つまりお礼は私とのダンスが良い、と。こりゃまた随分とささやかな願いである。
「えぇ。出来ればエスコートもさせて頂けると嬉しいのですが……」
しかもエスコートの申し出をして下さるなんて、仕事の出来る男は空気も読めるのかと感心である。兄のエスコートで夜会に参加する私を気遣ってなのだろう。
だがどうしたものか。折角の申し出ではあるが、私にはダンスをご一緒出来ない事情がある。だがそのことを知らないノア様に、気分を悪くさせずお断りするにはどうすればいいのか。私如きとダンスを踊りたいなんて、とてつもなく有難い申し出なのに心苦し過ぎる。
「エスコートが駄目ならば、せめてダンスだけでも」
私の心を知らず懇願してくるノア様。非常に困った状況である。更に言えば、なんかちょっとおかしいような気もする。
汗の滲んだ手を握る力が強くなったのは気のせいだろうか。と言っても、別に握り締められている訳ではないのだが、男性恐怖症で竦み上がった私の力ではちっとも動きませんとも。これは何か他の理由であるのかしら、と噴き出る冷や汗と闘いながら考えていると、
「先日は邪魔が入ってしまいましたから、是非ともお願いしたいと思っているのですが、ね」
どこか苦々しい表情でノア様がそう言い、そしてストンと私の中で疑問は解決した。思い出したのは、先日行われたグラン国での式典後に行われた夜会での事。ノア様がこんな顔をしてしまうような出来事がそこであったのだ。
※※※
10年ぶりに参加した夜会は、文句なしでしんどいの一言だった。
覚悟はしていたものの、飛んでくる視線や陰口は老若男女問わず妬み嫉みばかりで、顔には微笑みを携えども、内心はうんざりであった。
「大丈夫かい、マーシャ」
そんな私を心配してくれるのは、エスコート役である父だ。婚約者がいない私をエスコートしてくれるのは親族の父か兄しかいない。また男性恐怖症だということを除いても、次期王太子の乳母が決まっている私はエスコート役の男性を簡単に頼むわけにはいかなかったのである。
「大丈夫、とは言えないわ。少し気分が悪いの」
久しぶりとはいえ、夜会の雰囲気が馴染めない。この10年間、マイラ様のご用意に準じていたのは私が選択したことだとしても、こんなに不調をきたすなんて思いもしなかった。何よりも辛いのは広間の籠った空気だ。人の熱気と、色んな香水が混ざった空気が気持ち悪さを増加する。
その中、ファーストダンスは父と、その後はダグラス様とライニール様と続けて踊ることが出来たのは上出来だと思う。ライニール様とのダンスは特訓の成果ではあるが、彼ら以外は親族を除いて身体が拒否するのだから仕方がない。でも3曲は踊ったのだから、特例親善大使として最低限の義務は果たせたのだ。そこは頑張ったと私を褒めたい。
「少し外の空気を吸ってくるわ」
「大丈夫かい? わしも一緒に行こう」
「一人で平気よ、それよりもお水を持ってきて欲しいの。お願いしてもいい?」
「もちろんだ。だが十分に気を付けるんだよ。変な男に付いて行ってはいけないよ」
父の中では私は一体何歳なのか、この発言には呆れてしまう。
「馬鹿ね、お父様。付いて行きたくても付いて行けないわよ」
男性恐怖症の身体は、どんなに素敵な男性であろうとも拒絶してくれるのだから心配しなくてもいいのに。
「そうだけれどね、お父様はお前が心配でならないよ」
「大丈夫。すぐそこのバルコニーに居るからお願い」
頭の中は新鮮な空気を吸いたい、とその一心だった。
「分かったよ。でも本当に気を付けるんだよ」
「はいはい」
まったく子供ではないのだから、と思えども父に心配されるのは少しくすぐったい。扉を開けると、夏の夜らしい風が私の頬を撫でた。
「気持ちが良い……」
口から漏れた声は、広がる庭園の中に溶けた。扉を隔てただけなのに、一歩外に出ただけでこんなに空気が違う。やっと気兼ねなく呼吸が出来る、と深い深呼吸をした。
そしてふと気付いた。
多少の変化はあれども、ここから見える先にあるのは、10年前にラウルを探して衝撃的な光景を目の当たりにしたあの庭園なのだと。
「案外近かったのね」
あの時はラウルがいないのが不安で、結構な時間を探していたから広間からは遠い場所になると思っていた庭園だけれど、案外近場である。これって一歩間違えば私以外に目撃した人がいてもおかしくない状況だったのに、と私は思った。
もし、だ。10年前にラウルと当時第二王子の婚約者だった王弟妃との逢瀬を誰かが目撃していたとしたら、現在はどうなっていただろうか。
恐らくラウルは近衛騎士にはなれなかったし、もしかしたら王弟妃を務めているのは別の誰かであったかも。まぁ、そんな事を考えても詮無いのは分かってはいるけれど、ほんの少しだけ今とは違う未来があったのかもしれない、なんて感慨深くなってしまったのだ。
「…マ……ャ………?」
思いに耽っていたからか、人の気配に気づくのが遅れた。広間から聞こえる雑音で、私の名を呼ぶ声は辛うじて聞こえたが判別がつかなかった。でも父でないのは確か。
「どなた……?」
用心深く問うた声に扉が開かれ、ゆっくりと現れたのは私の恩人ノア様だった。




