第71話
「ぎゃあぁぁあぁぁあああ‼‼‼」
屋敷中に野太い悲鳴が響き渡り、その後の展開は非常に早かった。
私が踏み抜いた足の甲の痛みに悶えつつも逆上した男は、駆け付けたダグラス様の一閃でナイフが飛ばされ、瞬く間に確保されていく。
私はその様を動く事が出来ず呆然と眺めるだけ。
「くそがぁ、このアマ、ぶっ殺してやる!」
そんな怒号が耳に届くが、私はそれどころではなかった。
男の身体が離れた事で凄まじいまでの寒気は消え失せたけれど、酷い不快感に頭の中は大混乱。何が起こって、何がどうしたのか把握したくなくて、目の前で行われている事すら理解するのが難しかった。
「マーシャ、無事か…!」
視界の端で私に駆け寄るラウルの姿が見える。それは何となく分かったけれど、私の視線が捉えたのはダグラス様の姿。
「…ダグラス様…っ!」
差し伸べられたラウルの手をすり抜け、一目散にダグラス様の隊服が開けた白シャツに飛び込む。
「おわっ、なんだっ、どうしたっ!?」
慌てたダグラス様の声が頭上からするが知った事ではない。私はそのシャツに抱き着くように額と頬を擦り付ける。
「は? おい、マーシャ??」
引き離そうとするが、イヤイヤと必死に抵抗をする私に困惑しながらも、諦めたように好きにさせるダグラス様。それに甘えて、思う存分白シャツにしがみついた。
背後でラウルが私の名前を呼ぶ声がするけれど、知った事ではない。私は一刻も早く、この気持ちの悪い感触を拭いたくて仕方がなかったのだ。
「んぐぅぅぅぅぅぅ…っ!!」
「どっから声出してんだよ、お前」
呆れた声がするが気にしてもいられない。もう本当に、ただただ、ひたすらに気持ちが悪くて悪くて、正直堪らなかった。
頬からこめかみにかけて舐められた、あのおぞましい感触。生暖かくて、生臭くて、身の毛がよだつ嫌悪感。あまりの気持ち悪さに叫び出したくて、でも叫ぶのはギリギリ理性が働いた。それでも我慢が出来なくて、力の限り額をこすり付けて拭い去るけれど、そんな簡単にその感触は消えてはくれなかった。
気持ち悪い、気持ち悪い。
あまりの気持ち悪さに、思わず涙が滲む。
「あー…、参ったな、こりゃ」
シャツが濡れていくのがダグラス様には分かったのだろう。困ったような声が聞こえたけれど、堪えきれない涙はどんどんシャツに吸収されていく。
泣きたくない。こんな事で泣きたくない。何より、泣き顔を見られたくなかった。
必死に嗚咽を堪え、泣いていると思われないように虚勢を張る。そんな虚勢もダグラス様には今更だけれど。
そんな私の様子に、ダグラス様が隊服を脱いで頭から被せて来た。
「こりゃいかん、怪我をしているじゃないか。こりゃ直ぐにでも治療が必要だ。俺が医務官の所へ連れて行ってやろう!」
と、わざとらしい棒読みのダグラス様の台詞が聞こえて来たかと思えば、私の身体が浮いた。縦抱き、いわゆる子供抱っこである。
それに思わずカッと頭にきて、拳をダグラス様の背中に叩きつけた。
「おっとぉ、いってぇだろ」
そう文句を言うダグラス様に、再度拳を叩きつける。
「はいはい、大丈夫だから落ち着け」
まるで子供を宥めるように、ポンポンとリズム良く私の背中を叩くダグラス様。ムカつくし、悔しいけど、落ち着くその手の温もりに身体の力が抜け、とうとう零れだした嗚咽。
「うぅぅ…っ」
「おうおう、どうしたよ?」
お兄様が聞いてやるから吐き出しておけ、とダグラス様が言った。兄じゃないし、と言い返すにも嗚咽が邪魔をして出来なかった。するとまた背中をポンポンと叩かれて、私の意思と関係なく口から零れだしたのは、弱音だ。
「舐められた…っ」
「おうおう、後で綺麗に拭いてやるから、今は俺のシャツで我慢しとけ」
「……リアム君の指輪も枯れちゃった…ぇぐ」
「また貰えばいい。あいつは嬉々として作ってくれるだろうさ」
「……いっぱい気持ち悪かった…っ」
「メアリの腹に癒されろ…ってか、確か満員御礼だったな。仕方がねぇ、俺の肩で癒されろ」
「それは、無理ぃ」
「贅沢言うな」
だってだって、この無駄に幅のある硬いダグラス様の肩に、なんの癒しが芽生えるのよ。
「リアム君の、ほっぺに…ぇぐ…キスがいい」
「それは俺が許さん!」
「なんでぇぇ」
それが一番癒されるのに、お兄様だって言うんだったら妹のお願いぐらい快く聞いてくれても罰は当たらないでしょ!
「すっごく、怖かったのにぃ…っ!」
囚われてからずっと、私以外の守らないといけない人が傍に居た。可哀そうな目に遭った王弟妃宮のメイド、利用されたバウワー伯爵令嬢。この人達がいたから私は頑張る事が出来た。けれど、本当は私が誰かに縋りつきたかった。
「おうおう、そだな。怖かったなぁ」
ぽんぽん。
「よく頑張ったよ、お前は。よくやった」
ぽんぽん。
「……ぅん」
くっそぉ。ダグラス様の肩には癒されてあげないけど、100歩くらい譲歩して、そのぽんぽんで許してあげなくもない。
「………もっとして」
つい追加の要求である。
「はいはい。俺の妹は我が儘だなぁ」
「頑張った、私への、ご褒美です」
「ぶはは、やっすいご褒美だな、おい」
そうやってダグラス様とやり取りを交わしていると、やっと落ち着いてきた自分がいた。ゆらゆらとダグラス様の歩く振動が心地いい。ぽんぽんとリズムよく叩かれるのも気持ちが良かった。というより、もう既に微睡みの中に片足突っ込んでる。
「……お腹すいた」
ぐぅ、と小さく鳴るお腹の虫。でも空腹よりも眠気が勝って、だんだんと意識が遠のいていく。
「起きてから食べればいいさ。お休み、マーシャ」
うん、そうする。お休みなさい。
そうして私は意識を手放した。どうやらその後が大変だったようだが、すでに私は夢の中。その事実を知るのは後日の事だった。
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