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第65話

 ブーレラン子爵令嬢は一瞬強張り、それからゆっくりとバウワー伯爵令嬢に視線を向けた。


「私がこのような瞳をしていたですって…?」


 そう呟いた声に、私は頷く。


「えぇ。キラキラとした眼差しを王弟妃に向けていました」


 好きだからこそ、変換された憎悪は凄まじい物だっただろう。

 私は誰かに対して、妬ましい、羨ましいなどの感情を抱いた事がないから、ちっともブーレラン子爵令嬢の気持ちは理解できない。そしてその悪感情が罪を犯す理由になるというのだから心底怖い物だと思う。


「私はその時の貴女を知っているから言う事なのだけど、誰かを真似た淑女の見本である姿とやらを演じている時よりも、ずっとブーレラン子爵令嬢らしいと思いますよ」


 私がそう言うと、ブーレラン子爵令嬢は視線を彷徨わせた。それはどこか自分でも思う事があったからなのではないだろうか。

 しばらくの間、誰も口を開くことなく静かな時間が流れた。その間、少しだけしか口にしていない料理達がメイド達によって下げられていった。それから新たに出されたのは紅茶だ。香り豊かな、上質な紅茶。

 誰も言葉を発さない中、ブーレラン子爵令嬢が紅茶にジャムを入れる音だけが室内に響いていた。

 ほんのりと甘い香りが漂ってきて一瞬の既視感。けれど私は気のせいだと頭の片隅に追いやって、只ブーレラン子爵令嬢の動向を見守った。


「………でも、それが何?」


 しばらく続いた沈黙の後、ブーレラン子爵令嬢はそう呟くように言った。そして意味もなくカップを掻き回していたティースプーンをピタリと止める。


「そうね。昔の私は世間知らずだったから、リフィのように純粋にプリシラ様に憧れていたのだと思うわ」

 それは認めるわ、とブーレラン子爵令嬢は顔を上げる。


「でもそれは何も知らなかった昔の事。今の私とは全然違うのは当然でしょう。だって昔の私はプリシラ様とラウル様が不貞を行っているなんて知らなかったのだもの。昔の私がプリシラ様を好きだったからと言って、だから何? 王弟妃殿下とラウル様が不貞を犯していた事には変わりはないでしょう? 絶対に目を瞑ってあげないわ」


 そう鼻でせせら笑う。その笑いは自分に向けられた物なのか、または不貞を犯した二人に向けられたのか、私には分からない。

 ブーレラン子爵令嬢が嘲笑を止め、私にピタリと視線を合わせて来た。そして探るような眼差しを向けてくる。

  

「ねぇ、私はグレイシス嬢も素直になればいいと思うのよ。だって貴女は悔しくないの? 婚約者が既婚者に奪われたのよ。どんな手を使ってでも取り戻したいと思わなかったの?」


 その問いに、私は首を横に振った。


「そんなの嘘よ。絶対に嘘。本当はプリシラ妃が憎くて堪らないでしょう?」


 そうに決まっている、と言うブーレラン子爵令嬢だが、私は本当に王弟妃に対してそんな感情を覚えた事は一度たりともない。


「奪われたという言葉を使うのであれば、私がそれに対して悪意を抱くのは王弟妃に対してではなく、婚約者に対してです」


 私が王弟妃に思う事は、『面倒くさい』やら『気持ち悪い』やらの悪感情ではあるが、憎悪などの類の物ではないのだ。

 腹立たしいと思う事はある。だけどそれはあくまでも私やマイラ様に対しての非常識極まりない行動にであって、婚約者を奪ったからではない。


「けじめを付けることなく、無駄に周囲を傷付けるような屑をどうして取り戻したいと思うのでしょうか」


 そんな熱意を向けるだけの価値がラウルにあるとは思えないし、くだらなさ過ぎて食指さえ動かない。


「そんな見え透いた嘘を吐いても駄目よ。だって貴女、ずっとラウル様の事待っていたんでしょう? 婚約を解消していないのが何よりの証拠じゃない!!!」


 聞く耳持たぬ、である。婚約解消を行っていない理由が別にあるといくら言っても、ブーレラン子爵令嬢はきっと私を理解することはないだろう。


「ねぇ、私に協力をして。私は二人の不貞行為は表沙汰にすべきだと考えているの。貴方の力が必要なのよ」

「不貞を表沙汰にして、どうしたいのですか?」

「王弟妃を王族から抹消したいの。あんな穢れた血は王族にはいらない」

「……あくまでも、貴女は王族の為にプリシラ妃を排したいというのですね」

「そうよ」


 きっぱりとそう答えたブーレラン子爵令嬢に、私は心の中でため息を吐いた。沈黙が続いたあの時間の間に、思い直してくれたなら良かったのに残念だ。


「エイリアお姉様、ちょっとお待ちください。どうしてプリシラ様とラウル様が不貞しているという事になるのですか? 証拠がありませんわ」


 バウワー伯爵令嬢のその発言に、私もブーレラン子爵令嬢も驚きを隠せない。


「今まで何を聞いていたの、リフィ!」

「そのネックレスが不貞の証拠ですか? そんなはずはありません。だってこれは…」

「お黙りなさい。本当に馬鹿な娘ね。貴方は騙されているの。余計な話はしないで!」


 怒気を強めたブーレラン子爵令嬢の叱責に、バウワー伯爵令嬢の身体がビクリと震えた。


「でも、それは…っ!」

「お黙りっ‼‼」


 バシン、と乾いた音が室内に響いた。


「あ…ぁ」


 バウワー伯爵令嬢は自分に何が起こったのか分からないという表情をしている。けれど、見る見る間に彼女の頬は赤く腫れあがっていく。


「それ以上口を開くなら、今度はこれで反対の頬を打つわよ」

 

 そう言って、これ見よがしに掲げる扇にバウワー伯爵令嬢は怯えて震えだす。


「宝飾店にいた下民と同じ目に遭いたくないでしょう? 私の言う通りにしておきなさい。いいわね」


 扇を突き付けられたバウワー伯爵令嬢は恐れおののき、震えながら無言で頷いた。


「……宝飾店の下民ですか…」

「そうよ。確かこのネックレスの修理をしてくれた宝飾店の従業員だったわね。私がわざわざ庶民街まで赴いてやったのに、下民風情が私の言う事に素直に従わないから扇で打ち据えてやった事があるの。当然の報いでしょう?」


 そう言い捨てる。間違えようもなく、それはカリエの事だ。ブーレラン子爵令嬢の口からは不平不満が次々と零れだす。


「どいつもこいつも本当に使えないったらありゃしないわ。どうして私の言った通りに行動が出来ないのかしら。素直に従ってくれれば、こんな苦労しなくても良かったのに…」


 ぎりぎりと歯を軋ませる音がこちらまで聞こえてきそうだ。


「ねぇ、グレイシス嬢。貴女なら私の言う事をきちんと実行できる力を持っているでしょう? 私は使えない人間に煩わされて苦労をもうしたくないのよ。お願いだから協力をしてちょうだい。そして力を合わせて不貞行為を行った二人に鉄槌を下してしまいましょう!」


 『王族の為』『貴族の務め』『貴女の復讐を手伝わせて』『私は貴女の味方』と何度も同じ文句を繰り返す。けれど、何度私に懇願されても、ブーレラン子爵令嬢の要求に決して縦に首を振る事は無かった。

 段々と苛立ちを露わにし始めたブーレラン子爵令嬢は痺れを切らしたように立ち上がり、頬に手を当てて蹲るバウワー伯爵令嬢に扇を向けた。


「ならいいわ。こうしましょう。貴女が私の誘いを断るなら、リフィには私の代わりになって貰う事にするわ」


 その台詞にぎょっとしてバウワー伯爵令嬢は顔を上げた。


「グレイシス嬢が協力してくれないのなら、今回不貞を表沙汰にするのは諦めるわ。それで元々宝飾紛失の件で疑われているリフィに、このままこの件はリフィに罪を被って貰って、私は継続して二人の不貞の証拠を可能な限り集め続けるわ。そして時間が掛かっても絶対にあの二人には痛い目を見てもらう事にする」


 そうね、それがいいわね。と自分の言った事にブーレラン子爵令嬢は一人で納得する。だがそれに納得しないのは、当然バウワー伯爵令嬢だ。


「そんな、そんな…っ、お姉様は私に罪人になれと、そうおっしゃるの…?」

「そうよ。嬉しいでしょう? 私の役に立てるのだから」


 なんの罪悪感も抱かず、にっこりと微笑みを携えてブーレラン子爵令嬢は言い切った。


「なあに? 不満なの? 私の為に犠牲になるのがそんなに嫌なの?」


 そんなの当たり前だろうに、なぜブーレラン子爵令嬢はこんなにバウワー伯爵令嬢を虐げるのだろうか。


「そんなに嫌なら、私の代わりにグレイシス嬢を説得してみたらどうかしら? 説得に成功したら、私もリフィも助かって一石二鳥よ」


 どうする? と問うブーレラン子爵令嬢に、バウワー伯爵令嬢は狼狽えるだけ。


「ねぇ、グレイシス嬢。貴女ももう少し考えてみてくれないかしら。貴女の答え一つでリフィの将来が変わるの。この娘は私に利用されただけで本当は何の罪のないのに、グレイシス嬢が私に協力をしてくれないおかげで罪人に落とされるのよ。可哀そうだと思わない?」


 どこまでも自分勝手な言い分をのたまうブーレラン子爵令嬢に、私は侮蔑の眼差しを向けるが、彼女は気にもせずに肩を竦める。


「私はどちらでもいいわ。遅かれ早かれ不貞は絶対に表沙汰にするのは変わらないのだもの」


 うふふ、と声を立ててブーレラン子爵令嬢は朗らかに笑い、椅子から立ち上がる。


「夜まで時間をあげる。それまでにゆっくりと考えて返事をしてちょうだい」


 そうして、扇を口元で広げるとにたりと口端を上げ、ねっとりとした口調で言った。


「良いお返事を期待しているわ、マーシャさん」

 

 王弟妃の模倣を再び始めたブーレラン子爵令嬢は、上機嫌な面持ちで部屋を後にしたのであった。


いつもありがとうございます!

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