第58話
「お持ちしやした、姐さん!」
そこに戻ってきた手下の『姐さん』に、そこにいる誰もが吃驚した顔をした。
「どうぞ、水でやんす。こっちが飲みやすいようにレモンを絞ってありやす。こっちは桶に入れて来たでやんすよ。タオルは綺麗なこれを使うといいでやんす!」
え、なに。その顔に似合わない細やかな気遣いは。
「あ、ありがとう…」
「どういたしまして、でやんす!」
更に愛嬌たっぷりなお返事に目が点である。
「いや、ちょっと待って。『姐さん』って何⁉」
「え、何言っているでやんすか?」
「だから、『姐さん』ってどういう事かしら⁉」
そんなものになった覚えはないし、許可もしてない。それを何の前触れもなく『姐さん』呼ばわりって、一体何事よ⁉
「姐さんは姐さんでやんすけど??」
何そんな当たり前の事を? と言った感じで答えられて、まるで私が間違っているかのようだ。思わず、なに言っちゃってんの⁉ と怒鳴ってしまいそう。
「くはっは、良いんじゃねぇの。遅かれ早かれいずれはそうなるんだから」
呑気に笑って同調するリオに、周囲の荒くれ達もなぜか私が『姐さん』であるという事に「あ、そうなんだ?」みたいな感じで勝手に納得していく。なぜにそんなに聞き分けがいいのよ、おかしいでしょう?
「はぁ…、その妄想が現実になる事は無いわよ」
相手にするのが馬鹿らしく、私は呆れた口調で突き放す。夢を見るのはそちらの勝手だ。決して現実にはならないけどね。
「ところで、いつまで居座るおつもりですか? 見ての通り戯言に付き合う暇はございませんわ。さっさと退出して頂けるかしら?」
私の要望を全て叶えてくれた事にはお礼は言う。だけど、決して広くはない部屋にいつまでも居座られてもむさ苦しいだけだ。それに、今は意識がないからいいものの、もし今彼女の気が戻りでもしたら大変な事になるのは目に見えている。
「俺のお姫様は我が儘だなぁ、おい」
『姐さん』の次は『お姫様』ですかー! 我ながらさすがにそれはない。それにこれ以上設定を増やすのは止してよ、もう。
「んじゃ、約束通りドレスを見繕ってくっかなぁ。おい、案内しろ」
「承知でやんす!」
そう言って、素直にゾロゾロと部屋を出て行くリオ達。その中で一人だけ、納得をしていない雰囲気を纏う男。言わずもがな、リオに『面白い』と言われていた男だ。
その後姿を盗み見していると、扉が閉まる直前に振り返った男と一瞬だけ目が合った気がした。
その後、夕方頃に再び現れたリオが持ってきたワンピースを、私は袖を通すことなく女性に着せた。
夜着に比べ柔らかい素材ではないけれど、辛うじて服と呼べる状態の物を着続けるよりは、よっぽどこちらの方がいいに決まっている。その事に対しリオに何かを言われるかと思ったけれど、面白そうに笑うだけだった。最初から私の行動はお見通しと言わんばかりの態度に、密かに眉を顰めてしまう。
私はニヤニヤ顔のリオを追い出し、女性の介抱に専念した。
「水を飲んで。そう、ゆっくりよ。慌てなくても大丈夫」
高熱で汗をかいている女性に水を飲ませ、そして身体を出来るだけ冷やさずに拭っていく。
意識の朦朧としている女性は、擦れた声で何かをずっと言っていた。それは私に話しかけているのか、それとも高熱によるものなのか、判断はつかなかった。
「…っ…、こ…ぁ…ぃ」
「大丈夫、ここにいるわ。一人じゃない」
少しでも安心して貰いたくて、出来るだけその言葉を聞いて返事を返す様にしていた。昨夜に比べ、部屋の中を照らすカンテラの灯りもそれに一役買っている。
昨夜は暗闇の中、パニックになる女性を抱きしめて声をかけて、それから時間をかけて落ち着かせるという事を繰り返していたが、今日は目を覚ます度に私の姿を探す女性の手を握り返すだけで、安心して眠りにつく事が出来ていた。
おかげで体力の消耗も抑えられて、昨夜と比べれば随分と楽だ。けれど、それをあざ笑うように訪れた恐怖が私を襲う事になる。
それは深夜近くの事だった。
身体は休息を欲しているが、いつ誰が来るか分からない状況で眠れる訳もなく、ただ時が流れていく。女性も静かに眠りについていて、昨夜の徹夜と神経を削るリオとのやり取りで、さすがに私も疲れていた。あくびが漏れ、小さく伸びをした時、部屋に近づいてくる足音に気が付いた。
「……っ」
一瞬にして眠気が吹き飛んだ。足音は一人分。しかも忍び足で。深夜の寝静まった静けさの中でなかったのなら、確実に聞こえてはいない足音だ。
良い予感は全くしない。もしかしたら助けかもしれない、なんてそんな甘い考えを持つはずがなかった。この足音が私にとって良い物ではないのは間違いない。背中にジワリと冷たい汗を感じた。
足音は案の定部屋の前で止まる。私は女性を背中に身構えた。武器など何もない。けれど無抵抗なまま好きにされて堪るものか。そう唇を噛み締める。
ドアノブがゆっくりと回り、私は固唾を呑んで待ち構えた。だが、扉は開く事はなかった。
ガチャガチャとノブを回す音がするが、扉は開かない。足音の持ち主は鍵を持っていないのだ。
「……誰?」
私は震える喉をどうにか抑え、なんとか声に出した。
「そこにいるのは誰です。答えなさい!」
自分を叱咤するように声を張り上げる。そうでもしないと恐怖でどうにかなりそうだったから。
外からの答えはない。ドアノブを回る音も止み、一瞬の静けさの後。
ガッシャン‼‼
「ひっ!」
ひときわ大きく扉が揺れて、息が止まるかと思った。
そして遠ざかる足音。その音は来る時とは違って荒々しく、あまりの恐ろしさに涙が眦に溜まる。心臓は五月蠅いくらいに鳴り続けているし、口の中だってカラカラだ。
足音に気付いてから5分と経っていない。けれど、この数分で私の寿命は縮んだ気がした。そのくらい怖かったのだ。
込み上げてきそうになる嗚咽を止めようと息を止める。でもどうにもなりそうになくて顔を伏せた。もう扉の向こうに人の気配はない。恐怖は過ぎた。そう頭では分かっているものの、身体の震えを堪える事が出来なかった。
「……ぅ…っぇ」
負けるな。負けちゃ駄目だ。
声に出さずに心の中で自分に言い聞かせる。
どんなに男たちの前で勝気に振る舞っていても、怖い物は怖い。怖くて堪らないのだ。覚悟を決めていたって、襲ってくる恐怖は一緒。でも絶対に負けてなんかやらない。大丈夫、絶対に大丈夫。何度も口にした言葉を心の中で繰り返す。
「……ぇ…?」
ふと頭に感じた温もりに顔を上げた。
いつの間に目を開けていたのだろう。魘されパニックになっていた時とは打って変わった静かな眼差しで、彼女は私の頭を慰めるように優しく撫でていた。
そして、唇だけで「大丈夫」と、そう言った。
誤字脱字報告、ブクマ、評価をありがとうございます。
遅くなりまして申し訳ございません。次はそんなに待たせませんので、引き続きよろしくお願いいたします。




