第55話
その日は、日が暮れても誰も来る事はなかった。
月明りさえ差さない部屋で、いつ誰が来るかも分からずに緊張状態のまま眠れるわけがない。それに加え、眠っている時は魘され、起きた際にはパニックになる女性の介抱に体力も気力も消耗を強いられた。
「大丈夫、大丈夫よ」
この一晩で、どれくらい『大丈夫』だという言葉を口にしただろうか。
「大丈夫、絶対に大丈夫」
私の手を握りしめたまま眠りについている女性に、そして自分自身にも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
最初はパニックになる彼女を落ち着かせる為に吐いていた言葉だった。いつのまにか、根拠のないもののはずの言葉で、本当に大丈夫なような気がしてきたのだから不思議だ。彼女に掛けていた言葉なのに、思わぬ所で自己暗示成功である。
恐怖がなくなった訳じゃない。誰か助けてと泣き叫んでしまいたい衝動にだって駆られている。だけど、そんな事を女性の前では出来ない。彼女の心の拠り所が私だって自覚している。助けると約束をした。私はその約束を違える気はないのだ。
そう誓ったから、こうやって冷静でいられる。今の彼女の心の拠り処が私のように、私の心の寄り処もまた彼女なのだ。
きゅっと唇を噛み締めて、左手薬指の萎れてしまった指輪に視線を移す。それだけで癒されるなんて、どれだけリアム君は偉大なんだろう。そう思うと、噛み締めていた唇が緩み、口端が上がった。
強がり上等。負けてなんか堪るもんか。
身体は疲れているけれど、必死に気力を奮い立たせる。助けがくるまでは、自分の身も、彼女の身も心さえも守りながらやり過ごす。その為に出来る事をやるしかないのだ。
それから、どれくらい時間が経っただろう。
朝日が昇ってから、随分な時間が流れた頃。静かだった屋敷内から人の活動している空気が伝わってきた。そしてそのしばらく後、昨夜ぶりに眼帯の男が姿を現した。
「よう。随分仲良くなったようじゃねぇか?」
私達を見るなり、クックと喉を鳴らした眼帯の男。
日の光の下で見た眼帯の男は、まだ20代くらいの若い男だった。左目には、眼帯をしていても隠しきれない生々しい傷跡があり、もう片方の瞳から覗くのは深海のような群青色。美しい色だというのに、その瞳には光が全く宿っていない。表情は笑っているのに、男に対して不気味さを拭えない理由は、この光を失った瞳のせいだ。
「…お陰様で」
でも負けてなんかやらない。私はにっこりと微笑みながら、そう返した。
「真っ暗の中で一晩放置して、少しは弱ってるかと思いきや元気とか、くく、ウケる」
「あら、人は眠るときに暗い方がゆっくり休めるものですよ」
嘘は言ってない。けれど不敵な笑みを浮かべた私の顔色や、目の下に出来ただろう隈で、一睡も出来なかったのはバレているだろう。でもそれでいいのだ。
「案外図太いんだな、侍女様よ」
「お褒め頂き光栄ですわ」
「ただの強がりなのか、肝が据わってんのか。それともそれなりの修羅場をくぐり抜けて来たからなのか…、どれだ?」
「ふふ、ご想像にお任せします」
全部だよ、バーカ。
「そんな態度で俺が怒るとは思わねぇのか?」
確かに私の態度は男を怒らせようとしているように映るだろう。怯える訳でもなく、従順になる訳でもなく、挑発的なものなのだから。だがそうではないのは、男だってある程度は理解しているだろうに。現に男は怒る素振りを少しも見せてはいない。
「ですが、こういう女はお好きでしょう?」
そう、私はあくまでも友好的に話をしようとしているのだ。
「俺に気に入られたい…と」
「まぁ、ある意味そうですわね」
この男は、睨みつけた私を嫌いじゃないと笑いながら言っていた。また周囲の荒くれ共はそれに付き従うように笑った。想像するに、この眼帯の男は荒くれ共のボス的存在なのだろう。だから賭けに出る事にしたのだ。
「色々と聞きたい事もございますし、お話くらいはして下さっても良いでしょう?」
「探りを入れようって魂胆か」
「いやですわ。私が貴方がたを探った所で出来る事はたかが知れているではありませんか。その位は許して下さいませ」
そこまで器量は狭くないでしょう? と薄く笑った。そんな私を、どこか面白そうな雰囲気で眺める男の様子に、判断が間違っていない事を確信させた。
悪党には、暇や退屈などの理由で人を簡単に殺せる人間が存在する。楽しい事が一番で、つまらない事が大嫌い。逆に自分が興味を抱いた物に対して異様な執着を見せ、例えそれが毒だと知っていても、楽しければ良し、と嬉々と飲み干してしまうような、どこか壊れた人間が。
私は一人だけ、身近にそんな人を知っている。
人が恐怖や嫌悪を感じる事でも、面白ければ率先して自らの手を汚すような人物。そしてこの男は、その人にとても似ていた。
危険な賭けであるのは、重々承知の上。私達が無事に生き残る為の第一関門は、この男の興味を引く事が絶対だ。
「それで俺が得る物は何だよ。こういうのは等価交換が相場だろ?」
「まぁ、おかしなことをおっしゃるのね。私は淑女を怖がらせたお詫びが欲しいと申しているだけですわよ」
淑女を怖がらせたお詫びだなんて、我ながら随分と身勝手な言い分。
「それに、私から何かを得られるかどうかは貴方次第なのではないかしら」
でも、その位の強気姿勢が丁度良いでしょう?
「どうすっかなぁ?」
悩む素振りをわざとらしく見せる眼帯の男のその声は、確実に愉悦を含んでいる。掴みは上々。
「でもな、侍女様よ。俺に気に入られたいのなら一番簡単な方法があるだろ?」
眼帯の男はニヤニヤと笑い、私の顎を掴み無理やりに顔を上げさせた。息がかかる程に顔を近づける。
「媚び売って、大人しく俺の女になってみりゃ、ベッドの中でうっかりあんたの聞きたい事を洩らすかもしれないぜ?」
本気でそう思っての発言ではない。私を試したいだけだと分かっているのに、思わずザワリと背中に走る寒気に足が竦みそうなる。でも狼狽えたらダメ。怒りを出すのも駄目。怯むなんて、以ての外だ。
気付かれないように、なけなしの気力を奮い立たせる。
「あらぁ、私の見込み違いだったかしら…」
小首を傾げて、腕を組むように頬に手を当て、男がさっき私にしたのと同じようにこれ見よがしなわざとらしさと見せつける。
「簡単に手に入るものなんて、すぐに飽きてしまうでしょう? 私はそんなの面白くないと思うのだけれど、貴方は楽しいの?」
それが本当に? と小馬鹿にするように、そして心底不思議そうに。
「……あんた面白いな」
ポツリと言われた言葉に、来た、と内心ガッツポーズ。
「あんたに乗ってやるよ。どんな思惑があるか知らねぇが楽しそうだ」
絶対に後悔はさせないわ。それが貴方にとっては地獄の始まりかもしれないけれど、決して退屈はしないから安心してちょうだい。
「俺はリオ。一応はここに居る集団の頭って事になってる」
自分から自己紹介をしてくれるなんて意外ですこと。
「ご丁寧にどうも。私も名乗った方がよろしいかしら?」
『侍女様』と呼ぶくらいだから、私が誰なのかしっかり把握はしているでしょうけど、と一応は尋ねてみる。
リオと名乗った男は、ただ面白そうに私を眺めるだけ。
その様子に内心大きなため息を吐いた。自分から望んで興味を引くことにしたけれど、実に面倒くさい男。
私は、パンッと大きく鳴らすようにドレスを叩き佇まいを直した。
「囚われの王妃付き筆頭侍女、マーシャリィ・グレイシスですわ」
お見知りおきを、なんて言わないけどね。胸中だけでぼやき、完璧なカーテシーを披露してやった。
私のそれに、満足気に喉を鳴らしてリオは笑った。
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