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第47話

 嫌だと叫ぶマイラ様を無視して、少しでも二人から離れる為に震える足を必死に動かす。どこに逃げるのかなんて自分でも分からない。それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 ぐずぐずせずに木に登ることが出来ていたなら、こんな状況にはならなかっただろうに、後悔先に立たずだ。マリィはあんなに簡単に登っていたのに、木登りがあんなに難しいとは思わなかった。

 少しずつ近づいてくる野犬の鳴き声。息を切らしているのは自分か、それとも野犬の息遣いなのか、後ろを振り向く勇気はない。けれど確実に複数の足音が私に迫ってきているのが分かった。

 そんな中、だ。野犬の足音に混じって聞こえきた蹄の音と、私の名を呼ぶ声に希望が胸に込み上げる。これはダグラス様の声だ。

 思ったより随分と早く助けに来てくれた。これならもう大丈夫だと、足を止めそうになった私に飛ばされたのはダグラス様の怒号にも似た叱咤。


「止まるな、走れ!」


 けれど体力のない私の足は限界だったのだろう、何かに躓くでもなく縺れた足に身体が勢いのまま地面に叩きつけられ、激痛が私を襲った。転んだことに慌てて起き上がろうとしても痛みで身体が動かせない。懸命に身体を起こそうと顔を上げた私の視界に映ったのは、間近に迫る多数の野犬の姿だ。


「ひ…っ!」


 あまりの恐怖にひきつれた声が喉から零れ、野犬が涎を垂らし今にも飛び掛からんとしたその時だ。


「マーシャ!」


 野犬の背後から飛び出してきた馬に乗ったダグラス様の腕が私の身体を掬い取り、一瞬の浮遊感。そして気が付いた時には抱きしめられるようにして馬上にいた。


「間一髪だったな」


 そうダグラス様は言えども、肩越しに見える複数の野犬はまだ獲物()を諦めた様子はない。ダグラス様と共に来た二人の近衛騎士が野犬を蹴散らしているものの、数が多くて対処しきれないようだ。

 軍馬と言えど、私を乗せた分だけ馬の脚は遅くなっている。確実に距離を詰めてくる野犬にこのままでは数に押し切られる、そう素人目でもはっきりと分かってしまった。


「ダ、ダグラス様…っ」


 ここは私を置いていくべきではないか、そう脳裏によぎる。犠牲になるのは私だけでいい、なんて自己犠牲精神からそう思ったのではない。王位争いが激化している今、たかだか侍女と近衛騎士であるダグラス様のどちらが必要とされるか、冷静かつ他人事のように私の脳が判断してしまったのだ。ダグラス様に告げられるより先に、自らそう申し出るべきだと、だから名を呼んだのに。


「馬鹿なことを考えるなよ」


 怒鳴るでもなく、冷静な声音のダグラス様に私は何も言えなくなった。


「ダグラス隊長、これ以上は無理です!」


 後方の近衛騎士がそう叫び、ダグラス様が大きく頷く。


「散開せよ!」


 そのダグラス様の号令で近衛が方々へ馬を走らせていく。それに釣られまた野犬も散らばり、私たちを追ってくる野犬の数が減った。それでも血の匂いをつけた私がいるせいか、残った野犬はダグラス様一人で追い払えるような数ではない。ましてや私という足手まといがいるのだから、なお更だ。


「振り落とされないようしっかりしがみつけ! 絶対に離すなよ‼」


 とうとう野犬が馬に追いつき並走し始め、しかも進路をふさぐように犬同士で連携を取っている。これはただの野犬じゃない。特殊な訓練を積んだ軍犬だ。

 こんなに爆走している馬に乗るなんて経験があるはずもない私は目すら開けられず、必死に唇を噛みしめて、ダグラス様の言う通りにしがみ付く以外にできることがない。時折、軍犬のキャインと高い鳴き声が聞こえ、ダグラス様が馬上から剣を振るっているのがわかった。確実に軍犬の数は減っているはずなのに、追ってくる足音はなくならない。このままでは事態が悪くなっていく一方だ。私がいなければ、ここで手を離せばダグラス様は助かる。ほんの少し腕の力を緩めるだけでいいのだ。

 ごめんなさい。そう心の中で詫びて体の力を抜いた。落ちるというより、ふわっと宙に浮いたような感覚。そして地面に叩きつけられる衝撃に身を固くしてその瞬間を待った。けれど体に加わったのは、跳ね飛ばされたような衝撃。


「っ!」


 なぜと状況を把握するよりも先に私の身体は温もりに包まれ、次の瞬間には息が出来なくなった。口からゴポリと空気が零れ、そこで初めて水の中にいるのを自覚した。上も下も分からない状況で息もできず、空気を求めて必死に手足をばたつかせるが、水を吸ったお仕着せが身体にまとわりついて思うように体が動かせない。何がどうなってこんなことになっているのか、私には分からなかった。ただただ苦しくて、息が続かない。先ほどまであった温もりもいつの間にか消えていて、冷静なんて保てるはずがなかった。パニックに陥った私は暴れた。もがいて、必死にもがいて、でも体力も息も限界はすぐそこで。

 少しずつ薄くなっていく意識のなか、こちらに伸びてくる手が見えた気がした。死に際に見る幻だろうか、私はそれに向かって必死に手を伸ばした。その手が現実だと分かったのは、水の抵抗をものともしない凄い力で身体が引き上げられていったから。

 水面から顔を出した時、求めていた空気に無我夢中で息を吸って勢いのまま咳き込んだ。


「ごほっ、ぁ、はぁ、はぁ……ダ、グラ、スさ、ぇほっ、ま」


 溺れていたのを助けてくれたのはダグラス様だ。なんで、と泣きそうになりながら彼の名を呼んだ。だって私は彼を助ける為に手を離したのに。


「大人しくしろ、暴れるな」


 それはひどく冷たい声で、パニックの収まらない私を大人しくさせるには効果覿面、逆に身体が硬直してしまうほどの威力があった。だがそれをものともせずダグラス様は私を連れて陸を目指して泳いでいる。そして足が着くところまで来たときに、腕からダグラス様の手が離れていき、その時に感じた気持ちを何と言えばいいのだろう。


「ダグラス様!」


 意識もせず手をダグラス様に伸ばして、それから次の瞬間、パァンと大きな音が鳴った。


「っ!」


 一瞬何が起こったのか理解が追い付かなくて、でもジンジンと痛む頬が平手を貰ったのだと教えてくれた。


「なんで手を離した!」


 なぜって、そんなの聞かなくてもダグラス様ならわかるはずだ。あの危機的状況で私という足手まといはいらないから、だから手を離したのだ。そう答える為に口を開いて、でも盛大に顔を歪め鬼気迫るダグラス様に、言葉を失った。


「あそこを見てみろ!」


 そう言われてダグラス様が指した方をゆるゆると見ると、そこには勢いよく水が叩きつけられている滝があった。そして滝口付近には未だこちらを狙っている軍犬の姿が見えたのだ。


「え……?」


 そうするとどうだろう、今までは気が付かなかった瀑声が急に耳に聞こえてきたのだ。


「俺が抱えて飛び込まなければ、お前は確実に噛み殺されていた。手を離せばそうなるって分かっていただろう! それだけじゃない。あのスピードで走っている馬から落下したら、それだけで無事ではいられなかった」


 ダグラス様の手が私の肩を掴む、強い力に酷い痛みが走る。


「馬鹿なことは考えるなと、絶対に離すなと言っただろ! どうして、なんでだ‼‼」


 私の肩を揺さぶるように激しく詰問するダグラス様。けれどうめき声なんて出せない。だって私よりダグラス様の方が痛みを堪えるような顔をしていたから。


「……死ぬつもりだったのか?」


 違う、とは言えなかった。でも死ぬつもりはなかった。手を離した後は死しかなかったというのに、あの状況で私は死の覚悟なんてしてなかったのだ。

 こうやってダグラス様に指摘されて初めて、すぐそこに『死』があったのだと自覚した。


「…………ごめん、なさ、い」


 だから私にはこれしか言えなかった。いつも飄々としているダグラス様がこんなに動揺するなんて始めて見たのだ。こんな顔をダグラス様にさせるくらいだったら、最初から最後まで信じれば良かった。


「ごめんなさい…………っ!」


 ぐわっと溢れてくる涙。そして『死』という現実が私を襲った。


「あ…………。そうだよな、怖かったよな……」


 ガタガタと震え始めた私の身体を、ダグラス様が慰めるように優しく抱きしめる。それはまるで小さい子供をあやすようにポンポンと背中を叩いて、私を落ち着かせようとしているようだった。それにしてはとてもぎこちない動きであったけれど。


「マーシャ、お前は頭が良い。だがそれはあくまでも知識上のことでだ」


 ダグラス様が静かな声で言った。


「実体験の伴わない知識は時に自分に牙を剥くことがある。それは分かるな?」

「……は、ぃ」


 それは私が今まさに経験したことだ。私は私を足手まといと判断をして自らを犠牲にしようとした。でもそれが『死』を招く行為だということを分かっていたのに、現実と理解していなかったのだ。だから簡単に手を離すことが出来たのだ。それがダグラス様を裏切る行為だということを知らず。あんなに手を離すなと、しがみついておけと言われていたのに、だ。


「本の中だけの知識だけではなく経験を積め。そして何より、最後まで諦めてくれるな。マイラ様にはマーシャが必要だ。それはマリィも一緒だろ。あいつらのためにも、お前は絶対に死を選んではいけないんだ」


 分かるな、とそれはとても優しい声だった。


「マイラ様は、っ、ご、無事……ですか?」


 置いてきてしまった私のマイラ様。そして私の可愛い教え子マリィの顔が浮かんで、また更に涙が溢れてくる。


「大丈夫だ。恐らくラインハルト殿下が保護しているだろう。マーシャは良くやったよ」


 その言葉に安堵が胸に広がり、そして会いたいと、顔が見たいと凄く思った。そしてそんな彼女らを置いていくところだったと後悔が心を襲い、また更に涙を流したのだった。


 この時、ダグラス様に頬を叩かれて気が付いた、自分に足りないもの。

 知識だけでは駄目。覚悟だけでも駄目。だから、私は変わった。

 ダグラス様の言うように、知識だけではなく経験を積むことにしたのだ。例えば怪我をした時の治療法は実際に医務官の元で学び、薬草や毒草の知識、薬の調合までも習得した。それだけではなく、今回のように溺れたときの対処法や、登れなかった木登り、そして襲われたときの撃退法なども武官、つまりはダグラス様に指導して貰いもした。

 他人(ひと)からどんなにはしたないと言われようと、変だと思われようと構わない。だって生きる為、守る為、そして泣かせない為に絶対に必要なことだったから。


 この日から、本当の意味で王妃(マイラ様)付き筆頭侍女になったのだと、そう思うのだ。

 

 


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