第44話
「正式名はアッシュ・アル・クワンダ。十年前に廃嫡された元クワンダ国王太子だ」
瞬時に十年前に相対した王太子の姿が私の頭の中に蘇る。
深紅の髪とアメジスト色の瞳のクワンダ国王族らしい姿を持った、それはとても精悍な男性だった。
恋に溺れる前までの元王太子は、未来を期待されていた有能な人物だと誰もが口を揃えて言っていたと聞いている。私はその姿を知らないが、当時の国王も臣下も、そして民からも大きな信頼を寄せられていたらしいとも。だが彼は道を間違えたのだ。たった一人の女性の為に国庫に手を付けるという過ちを犯し、王太子という地位を無くした。そしてその罪を暴き、彼を廃嫡に追い込んだのは現クワンダ国女王陛下と私だ。
「あの方が狂死された……?」
私の知っている元王太子は、廃嫡されたことがショックで心を病む、なんて殊勝なタイプではなかった。どちらかと言うと唯我独尊の気があり、廃嫡されたとはいえ虎視眈々と王太子の地位に返り咲くのを狙うような、自尊心の強いタイプだったはずだ。まさか恋に溺れ、王太子としての自分を失う程に愛した女性と引き離され心が壊れたのだろうか。私にはその気持ちが分からない。
「それだけじゃない」
けれど私の狼狽した様子を気にすることなく、否、視界に入れないから気付かないだけだ、キースは言葉を続ける。
「元王太子が亡くなると元側近達も同じように狂死した。まるで連鎖するように、だ」
「……は?」
一瞬、耳がどうかしたかと思った。そのくらいとんでもない話である。10年前の彼らの顔が私の脳裏に蘇る。
「流行病……とかではなくて?」
辛うじて口から出たのは、そんな台詞。
「彼らの居た場所はそれぞれ距離がある。流行病で亡くなったとは思えない」
そんな記録もない、とキースは言った。
「ちょっと待ってちょうだい。まさか『呪い』で狂死した、なんて言うつもりじゃないでしょうね?」
馬鹿言わないで、と私は吐き捨てる。けれどキースだけではなく翁もクライブ様もいやに神妙な顔つきで私を見つめた。
「貴女様がそう思いたいのも仕方の無いことです。私とて直接目にしなければ『呪い』なんてものを信じることはなかったですからな」
翁が静かな声で私に告げる。
「元王太子が亡くなられたところを直接見たというのですか? そしてそれが『呪い』のせいだと?」
「えぇ、看取りました。私はアッシュ様の侍従ですからな。あの方がお生まれになって亡くなるまでずっとお側でお仕えしておりました」
「翁が元王太子の侍従……」
あぁ、だからか、とそう私は思った。
「ここは元王太子の幽閉場所だったのですね」
私がここに辿り着いて覚えた疑問。いくらこの廃村が昔栄えていたとしても、人が住む程度には整備されていた街路と、騎士ではない翁の存在。人気が無いとはいえ、案内された屋敷に生活感があることも全て説明がつく。村として機能してはいなくとも人は住んでいたのだ。
「でも、だからと言って『呪い』だと断定するのはおかしくはありませんか?」
何度でも言うが『呪い』なんて不可思議なものは存在していない。いくら翁がそう言っても、それは他の要因が必ずあるはずだ。それが何かは私には見当も付かないけれども『呪い』なんてものは絶対にない、と私は言い切る。
「私はですね、アッシュ様が少しずつ正気を失っていくのを間近で見て参りました」
穏やかに、けれど間違いなく悲しみが混じった声で翁は話し始めた。
「いくら私がお世話をしても、アッシュ様にとってここでの暮らしはそう簡単に慣れるものではなかったのでしょう。体調を崩されて、慣れない環境に体が付いていかなかっただけだと、そう最初は思っておりました」
けれど異変はそこから既に始まっておったのです、とそう翁は目を伏せる。
「夢に魘される夜が続き、日々憔悴していかれた。悲鳴を上げ始め、暴れることさえありましたな。毎夜、必死に暴れるアッシュ様を押さえ、宥め賺し、落ち着かせ、それはまるで戦争のようでありました」
今よりはいくらか若いとはいえ、翁が成人男性である元王太子を押さえるのは簡単ではなかっただろう。けれど『戦争』と例えた翁の表情は決して辛そうなものではなく、慈しみに溢れたもの。翁がどれだけ心を尽くし、元王太子に仕えてきたのか、私にはまるで自分のことのように汲み取れた。
「それなのに、アッシュ様は毎夜魘されていることをご自覚されておられなかったです。むしろいつまで経っても体調が良くならないことを不思議に思っておられるくらいでしたから」
もう戻らない日々を懐かしく思ってか、ふふ、と翁は笑った。
「ですが体も心も正直なものです。そんな日々を過ごしていく内に、アッシュ様は少しずつ壊れていかれた。起きている時さえ些細なことで声を荒げ、そうかと思えば狂ったように笑い出す。声もなく涙を流すこともあれば、泣き叫ぶ時もありましたな。私に出来ることは、ボロボロになっていくアッシュ様のお側にいることしかなかったのです」
それはどれだけ心苦しかっただろう。どれだけ自分の無力さを嘆いただろう。想像するだけで心臓がぎゅっと苦しくなる。
「次第にベッドから起き上がることも出来なくなっていき、目もうつろに。最後には人の言葉すら忘れてしまわれた……。そのアッシュ様が放った言葉で、辛うじて理解できたのは側近の方々の名前でした。そしてもう一人、女性の名を呼んでおられました。どなたの名だと思われますかな?」
「……ソフィア・アンダーソン。彼の最愛の女性の名でしょう」
我を忘れ恋に溺れた元王太子が呼ぶのなら、その名以外にないと私は思った。けれど翁は静かに首を横に振り、
「アッシュ様が口にした名はマーシャリィ・グレイシス嬢、貴女様の名です」
そう言った。
「は……? 私の名ですって?」
「えぇ、間違いなく貴女様の名です」
この耳でしっかりと聞きました、と翁は頷く。
「おや、随分と顔色が悪いですな。もしや体調が良くないのではありませんかな?」
「え、えぇ。少し風邪を引いてしまったみたいですの。でも、もう復調に向かっておりますわ」
なぜだろうか、翁の不意な問いに冷や汗が流れた。
「アッシュ様も最初はそう思っておられたのですよ」
本当にそれは風邪ですかな? と、そう探るような翁の視線に体が強張り言葉が出ない。
「夜、眠れておられますか? ご自分の感情を制御できなくなったことは?」
ドッドッドと心臓の音がやけに耳に響き始め、それはまるで翁の問いを肯定しているかのよう。
「アッシュ様は幻聴幻覚、幻臭にも苦しまれておられました。貴方様にその覚えは?」
知らずに体がびくりと震える。覚えがない、とは決して言えない。
「な、何が仰りたいのか分かりませんわ」
「本当に分かりませんか? あんなに聡い貴方様が?」
アッシュ様に名を呼ばれた側近の方々は後を追うようにして狂い死にしていかれたのですよ、と翁は囁いた。いや、囁いたように聞こえただけだ。
「……止めてくださいませ。それではまるで側近の方々と私がアッシュ様に呪われたかのように聞こえます」
私の体調が悪いのは崖から川に落ちたせいで、決して『呪い』なんかのせいではない。
「そう言うております。マーシャリィ・グレイシス嬢。貴方様はアッシュ様に呪われておられる」
「な……っ‼」
ふざけるのも大概になさいませ、と声を荒げ否定をしようとした私を止めたのは、どこからともなく聞こえてきた悲鳴。
「…………風鳴り……?」
なんていうタイミングだろう。気味が悪い、と私は二の腕をさする。
「おや、もうそんな時間ですか。随分と話し込んでしまいましたな」
先ほどまでの空気は一体なんだったのだ、と思うくらい穏やかな口調で翁は言った。
「……え?」
「ほっほっ、少々意地悪をし過ぎましたかな」
意地悪だと? それはつまり揶揄われたということだろうか。
「相変わらずだな、翁」
「翁の手に掛かったら才女と名高いマーシャ殿も形無しですね。さすが翁です」
「ほっほっほ、私もまだまだ現役ですな」
「え、え、えぇええ???」
それは一体どこからどこまで?
「私はそろそろ夕飯の支度をして参りますゆえ、皆様方はどうぞお寛ぎ下され」
そう翁は笑いながら部屋を出て行ってしまった。残されたのは苦笑しているキースとクライブ様。そして混乱収まらぬ私だ。
「もしかして、翁と一緒になって私を揶揄ったの?」
神妙な顔つきでいたのはその為だったのか、とそう思った。憤慨する私にキースもクライブ殿も肩を竦める。
「別にそうじゃないが……」
「じゃあ何よ!」
翁の話に心を痛めた私が馬鹿みたいじゃない。
「俺がお前に対して可愛くないと言ったから、翁が気を利かせてくれただけだ」
「意味が分からない!」
どう言う意図であれが気を利かすということになるのか、本当に理解が出来なかった。
「お前は分からないままで良い。それに翁の話は全て真実だ。嘘は何一つ言っていない」
「今更そんなこと言われても信じないわよ!」
どうせ私を怖がらせたいだけだ。
「私が『呪い』にかかっているですって?」
馬鹿馬鹿しい。少しでも信じそうになった自分を殴ってやりたい。
「頼むから落ち着いてくれ」
「落ち着いているわよ!」
確かに腹は立っているけれど、頭は混乱からはもう脱している。
「いいか、よく聞けよ」
そう言っておもむろに私の両肩を掴んだキース。
「覚えていないようだが、お前は昨夜魘されていた。それを知っているのは俺だけじゃない。魘されていたお前を看病したのは子分だ」
「熱を出していたんだから魘されるくらいするわよ」
もう騙されないわよ。熱で魘されるなんて当たり前の話じゃないの。バッカじゃないの?
「俺だって呪いなんて馬鹿げた物が存在するなんて信じているわけじゃない」
「当然よ!」
そんなものがある訳がないと、私は最初からそう言っている。それをぐだぐだと鬱陶しい。
「お前が魘されていたのは昨夜だけじゃないんだよ。隠れ家でもお前は魘されていた……いや、あれはもう発狂していたと言っても過言じゃないっ」
「は……ぁ? 何を言って…」
そんな戯れ言を、と一蹴するのは簡単だった。いくら私の両肩を掴むキースの目が真剣だろうが鼻で笑うだけでいい。それなのに、
「……信じないわ」
口から零れたのは、あからさまに虚勢を張ったと分かる震える声だった。




