第32話
「………?」
思考が上手く動かず、今の状況が瞬時に理解出来なかった。
背中が温かい。まず思ったのがそれ。なんで温かいのだろう、と何となく視界を見回して、自分がガスパールに抱き込まれる形で横たわっていることに気が付いた。
「姐さん、これをゆっくり飲むといいでやんすよ」
口元に持ってこられたのは水筒だ。それが傾けられ口の中に冷たい水が流れ込んでくる。
「……ランカ水?」
酸味のあるすっきりとした清涼感に小さく私は呟く。
「ランカ水って何でやんす? これは只のレモン水でやんすよ」
ケラケラと声を立てて笑うヤンス。そういえばランカ水は海を隔てた南の国にある解毒作用のある果物だとシエルが言っていたのを思い出す。そんな珍しいものを日常的に持ち歩くなんて出来るはずはないよね、となぜか納得してしまった。どうしてこれをランカ水だと思ったのだろう。
「あぁ、あれだ」
やけに豪奢な部屋でシエルと一緒に捕らわれていた時、重い空気の中どこからともなく現れた時のヤンスがあまりにも滑稽で印象的だったせいだ。何だっけ? ジャジャジャーンとかキラーンとかの効果音を自分の口で言っていて、終いにはオイラ参上!だったかしら。あの時は吃驚してそれどころではなかったけれど、思い返すと笑えてくる。
「ふふ」
思わずの思い出し笑いに、ガスパール達が怪訝な表情をしたのにすら私は気付けない。
「姫さん」
ぼぅっとしていると、リオの声が聞こえた。
感情の読めない男。第一印象はあの人によく似ていると思った。
いつ見ても笑顔を浮かべているのに、目の奥が凍えそうなほど冷たい人。つまらないを極端に嫌い、楽しいだけを追求する人。他人が不快になろうが悲しんでいようが、自分さえ楽しければ良しと胸を張って言える人。愉悦の為なら毒さえ飲み干してしまうような、どこか感情の欠落した人。何より、私がこの世で一番嫌いな人。
リオのせいでせっかく楽しかったのに、思い出したくない人の顔が頭に浮かんで気分は急降下で氷点下以下に落ちた。
「姫さん」
今度はやたら近くから私を呼ぶ声が聞こえて焦点をそこに合わせていると、さっきまで手に届く距離にいなかったはずのリオが右隣から覗き込んでいるようだった。
頭に浮かぶのは、我がグレイシス家メイドのメアリの言葉。
『ここだって言うタイミングの時に乗っかることです。逃げちゃ駄目ですよ』
こんな時に思い出す言葉ではないはずなのに、ここっていうタイミングだ、チャンスだ、そう思ってしまった。
意識を集中させるのは右手。特に人差し指と中指は重要だ。
「リオ」
にっこりと微笑みかける。あと少し、もう少し近づいてくれさえすれば、と。左手を持ち上げ、視線を外さないままゆっくりとリオに向かって伸ばす。
「……姫さん?」
怪訝そうな顔をしたリオに、今だ! と右手をリオの顔中央にある穴二つを目がけて垂直に振り上げた。いける! そう思ったのに、
「いったぁ!」
呻いたのは私の方。
「おっと、危ね」
飛び退いたのはリオだけじゃない。私を抱えていたガスパールも、だ。おかげで私は放り投げられて地面に叩き付けられたのだ。
「すまん、嬢ちゃん……。身体が、その、無意識に、な……?」
覚えておきなさいよ、ガスパール。
「ぶわっはっはぁ! さすが姐さん! 親分に向かってそれは姐さんにしか出来ないでやんすよ!」
お腹を抱えヤンスは爆笑し、ガスパールのせいで失敗に終わった強烈鼻フックに思いっきり舌打ちをした私。そして、
「くく、正気に戻ったようで何よりだ」
リオは飄々とした態度を崩すことなく、そう言った。
「あとちょっとだったのに……」
痛む身体を起こしながら愚痴がポツリ。その愚痴に更に爆笑するヤンスを余所に、
「いきなり倒れたと思ったらこれかよ。お前一体なんなんだよ」
と呆れた、いや、どちらかと言うと未知の生物を見るような目のキースに私は小首を傾げた。
「倒れた?」
誰が? そう思って、さっきまでガスパールに抱き込まれる形で倒れ込んでいた自分を思い出す。
「…………私が倒れたの?」
「他に誰がいるんだ。お前が地面に這いつくばっているのがいい証拠じゃないか」
キースの言う通りである。
「お前、心の病気かなんか患っているんじゃないか? ちょっと俺様には理解の出来ない行動があまりに多い」
「失礼ね」
まぁ強烈鼻フックが淑女の行動ではないことは確かだ。けれどガスパールが無意識に鼻フックに慄いてしまったように、私のこれだって頭が朦朧としている中での無意識というか深層心理からくる行動だと思えば、そう変なことではない……と思いたい。
「だが、彼が原因で男性恐怖症を患ったんだろ? それならお前が倒れたのも、変な行動を起こしたのも理解が出来る」
「……え?」
リオを指差して言ったキースの台詞にまたまた小首を傾げる私。そして少し考えて、思い出した倒れる前の会話。
「あぁ、そう言えばそんな会話していたわね……」
確か否定を口にする前に甘い香りがリオからしてきて、と思い出した瞬間にぞわっとした悪寒が走る。
「おい、聞いているのか?」
悪寒を逃がすように二の腕を摩っていると、キースが腰を曲げて私の顔を覗き込んできた。その瞳には私を心配する色を見つけて少し意外に思った。それにしても無駄に端正な作りの顔である。中身は思い込み激しい勘違いちゃんなのにねぇ、と思考が横にずれる。まだまだ頭がしゃっきりとしていない。
「大丈夫よ。ちゃんと聞いているわ」
えっと、何の話をしていたかしら?
「あぁ、そうそう。ねぇリオ、ちょっとこっちに来てちょうだい」
男性恐怖症の原因がリオだと勘違いされている話だ。
「その右手が俺の鼻を狙わないって約束出来るなら行ってやっても良いぞ」
「……約束するから来てちょうだい」
私が本当に強烈鼻フックをお見舞いしてやりたいのはリオじゃない。でも、ちょっと口惜しかったりする本音は内緒だ。
「ほら、ご要望通り来てやったぞ。何だったら抱きしめてやろうか」
「それに私が、うん、と答えると本気で思っているわけではないわよね」
馬鹿なの?
「いいから、少しじっとして」
私が吐き気に襲われた時のあの甘い香り。リオから香ってきたように思えたそれは、鼻フックを仕掛けた時には何も香ってこなかった。手が届く距離にいたというのに、だ。
「ご要望のままに、ふくく」
私は恐る恐るリオに手を伸ばした。もちろん先ほど仕留め損ねた鼻フックの為ではない。約束は破るものではなく守るものですからね。
ちょん、と人差し指でリオの腕を突いて、今度は少し強めにツンツン。
「くくくく」
堪えきれないリオの笑い声なんて気にしませんとも。好きなだけ笑いなさいな。私にとっては大切な確認作業ですから。
「……ふむ」
今のところ、さっき感じた悪寒やぞわざわする気持ち悪さは込み上げてこない。大丈夫そう、と確信した私は思いっきり手のひらをリオの腕に押し当てた。
「くく、何か感じたか?」
頭上から降ってくるリオの笑いを含んだ声に、私はにっこりと笑みを返す。
「なーんにも!」




