第23話
小屋を出てから一日目。ただひたすら歩いた。それも通常の街道ではなく、道とは言えない獣道をだ。ここから目的地である河口近くの町には男性の足で二日程かかるとキースは言っていた。だが私は旅慣れていない女性で、しかも道なき道での行路と来れば、どれだけ時間が掛かることやら。考えるだけでぞっとする。
「おい、大丈夫か?」
キースが私の顔を窺い問うてきた。時間が経つにつれ、私の歩みが遅くなったのに気がついたのだろう。
「……大丈夫よ。少し疲れただけ」
酷く身体が重い。自棄に喉が渇くし、背中には時折寒気が走る。これが疲労からくるものならまだいい。でも一日中濡れたドレスを身に纏っていたのだ。そこから風邪を引いたとしてもなんの不思議でもない。
「ねぇ、何か話をして貰えないかしら」
「話?」
「そう。何でもいいから、お願い」
どうにかしてこの悪寒から気を紛らわしたい。その一心でキースにお願いした。
「まぁ、そうだな……、何がいいか」
「うん…、そうね。共通の話でもあればいいのだけど」
そう言った自分に思わず呆れてしまった。昨日会ったばかりの男性と共通の話などあるはずがない。お互いにお互いのことを何ら知らないのだ。それなのにキースはおぉ、と声を上げた。
「なら話題は一つだな。俺の妻の話をしよう」
「……え?」
それのどこが共通の話になるのだろう。と私は首を傾げた。
「本当にお前は察しが悪いな」
いや、それさっき撤回されたはずだよね。
「俺の妻の話と言ったら、マーシャリィ・グレイシスの事に決まっているだろう?」
「はぁ!?」
えぇ、確かに私たちの間にある共通の話題だけれど、妻じゃない。なった覚えは全くないのに、何を自信満々にほざいているんだ、この自信過剰な勘違いさんは!
「え、えぇ~?」
口から零れるのは不満の訴えだけ。
「まぁ聞けよ。俺様がどんな想いをマーシャリィ・グレイシス嬢に抱いているのかをな。特別だぞ?」
そんな特別全然いらない。私が欲しいのは、この体調の悪さを紛らわせてくれる楽しい話題だ。決して空想の中の私に対しての想いなんかじゃない。だが反論する気力もない。
「もう好きにして……」
力ない声でそう言うのが精一杯。私のその返答に満足そうに頷いたキースは、実在しない私のことを鷹揚と話し始めた。
「一番最初に俺様がマーシャリィ・グレイシス嬢に運命を感じたのはな、クワンダ学院に入学した際に聞いた彼女の活躍譚だ。それが俺との出会いだった」
出会ってないから。それ出会いとは決して言わないから。勝手に運命感じられてもすんごい困る。
「知っているか。彼女の学院での活躍を。グラン国からの留学生として颯爽と現れた彼女は、クワンダで学んだ全ての学問に置いてトップに君臨し、学院の生徒のみならず教授たちも驚かせたと言うのだ」
全ての学問でトップの成績を修めた? いえいえ、得意の分野のみです。君臨などしていません。かなりの誇張が入っていますよ、それ。
「更に言えば、一年生だと言うのにも関わらず、学園を取り仕切る生徒会ヘの入会を許されたのだ。ちなみに留学生という身分で生徒会入りしたのは彼女が初めてだ。それはそうだと思わないか。留学期間は二年だ。その期間だけでもと懇願されて生徒会入りしたというから、どれだけ期待されていたのかと肌で感じるだろう?」
肌では感じない、そんな物。だって生徒会入りなんてしてないもの。誘いを受けたのは事実だが、懇願なんてされていない。ちょっと忙しいから手伝ってくれない?程度の軽口である。
「それを聞いた時に俺様は思った。そんな素晴らしい女性がこの世に存在しているのか、と衝撃を受けた」
受ける必要のない衝撃ですね。だって空想の中だけの女性ですよ。キース曰く素晴らしい女性とやらは存在すらしてないですよ。そう言ってやりたい。
「そして俺様が恋に落ちたのは、彼女の留学期間が終わる最後の年に行われた卒業パーティでの出来事が語られた時だった」
「……へー」
我ながらすごい平坦な声が出た。いもしない女性に恋に落ちちゃったんだ。哀れの一言である。
卒業パーティでの出来事っていったらあれでしょう。ガスパールに話した、あの時のことだと思う。むしろそれ以外ない。
「愚かな王子が引き起こした騒動を、当時第一王女だった女王陛下と共に打ち破り、可哀そうなご令嬢を救うなど、それはまるで、どこかの物語に出てきそうな英雄のようではないか。愚か者と対峙する毅然とした姿、身分の差にも慄くことなく戦う勇気、そして勝ち取った勝利。これは学院の後世へと語り継がれる伝説と言っても過言ではない!」
それ、私ではなく女王陛下のことですね。どうしてそれが私に入れ替わってしまったのかとてつもなく不思議である。女王陛下と共に愚かな王子が引き起こした騒動に対峙したのではなく、命令されるがままに働いた結果がそれになっただけだ。賞賛されるようなことは一切しておらず、女王陛下の金魚の糞に徹していただけなのだ。伝説などになるような代物では決してない。誇大誇張にも程がありはしないだろうか。
「でもキースはその伝説の女性にお会いしたことはないのよね?」
口が裂けても伝説と称される女性を、マーシャリィ・グレイシスだなんて言いたくない。
「そうだ。残念でたまらないが、俺様が入学した時には帰国されていて、お姿ひとつお見掛けすることは叶わなかった。俺様が彼女を感じられるのは全て伝え聞いた時だけだ」
だからそんな勘違いしちゃったのかー。それも随分と長い時間勘違いし過ぎて、凝り固まっちゃったんだねぇ。可哀そうすぎる。
「それはもう恋焦がれた。会えない切なさで幼い頃の俺様は枕を濡らす日々を送っていた。グラン国へ帰ってしまった彼女を想ってはため息を吐き、募る恋心に苦しむ学園生活だったさ」
「へー、それは難儀ですねー」
はいはい、もう好きなだけ黄昏れれば良いと思うよ。誰も止めないから。あー、そっか。キースの話を聞いていてなんか既視感を覚えると思ったら、これは独りよがり劇場だな、と気付いた。現実とかけ離れた自分の中だけのお話を悦に入って語っているのは全く同じである。
「それから一年後だ。俺様がまた彼女に対して運命を感じる出来事が起こった」
ん? 帰国してから一年後? その時期にクワンダ国を訪れてはいないのに、どうやってだ? 頭の中にはてなマークが飛び交った。
「マイラ王女がグラン国に嫁がれ、その侍女にマーシャリィ・グレイシス嬢が付いたというではないか」
あー、なるほど。これも伝え聞いた話なのね。
「そして侍女として働き始めたマーシャリィ・グレイシス嬢は、私腹を肥やしていた当時王女の筆頭侍女のけしからぬ所業を全て摘発し強制送還に追い込み、マイラ王女をお守りしたんだ。16歳の侍女になったばかりの女性が、己の危険を省みず主の為に身を投じるなど、そう簡単に出来るものじゃあない」
うん、確かにそんなことがあったような覚えはある。マイラ様がものすごく可愛くてメロメロだったあの頃ね。今でもこよなく愛しいけれど、あの頃のマイラ様の可愛さは絶品ものだったのだ。そのマイラ様に不埒な真似をした当時の筆頭侍女を追い出したのは事実だけれど、どちらかと言うとマイラ様の天使級の可愛さの記憶が鮮明に残り過ぎて、顔さえ覚えていなかったりする。私にとってはそんな大袈裟に語られる程の出来事ではないのだ。
「分かるか。俺様はそこで二度目の恋に落ちたんだ」
また落ちちゃったのかー。簡単に落ち過ぎかなー。伝え聞いただけの話でねー。うん、理解出来ない。
「へー、恋は盲目だねー」
相変わらずの平坦口調である。
「当然だ。彼女は俺様の運命の人だからな。これは確信だ」
ふふんと鼻を鳴らして、なぜにどや顔なの。ほら、無駄に色気を振りまかないの。はぁ、全く全く。実在しない私がキースの運命の人ねぇ。つまり実在している私の運命の人ではないと勝手ながら解釈をさせて頂きます。あしからず。
「悪く思わないでね」
「何がだ」
おっと、いけない。心の声がつい漏れてしまった。
「いえ、何でもないわ。気にしないでちょうだい」
「ふん、まぁ良いだろう」
そうそう、只の本音ですから気にしないでいいですよ、うんうん。
「それでだな!」
「え、まだ続くの?」
もうお腹いっぱいなんですけど。
「お前が話せっていったんだろう。俺様はまだまだ話し足りないが?」
「えー……?」
何か話して欲しいってお願いはしたけど、妄想はもういらない。
「マーシャリィ・グレイシス嬢の活躍はまだまだあるぞ。快進撃は止まらない。さすが俺様の妻」
「結婚してないでしょ」
「いずれそうなるのだから問題ない」
「あるから、問題」
空想の中のマーシャリィ・グレイシスなら問題はないかもしれないけれど、現実の私には風評被害になるからね。いつの間にか勝手に婚姻しています宣言されてもいい迷惑だからね。そこのところしっかり自覚してちょうだいね。お願いだから!
「あのね、キース。マーシャリィ・グレイシスは貴方が言うような女性ではないわよ。それだけは断言して言える」
「……なんだと?」
キースの声に怒りがこもる。余計なことは言わなくてもいいのに、という私の意思に反してなぜか口は滑り出す。
「英雄だとか伝説だとか、とんだ勘違いよ。思い込み。実際に会ったら幻滅するわよ。そんな高尚な女性ではない、期待外れだ。騙されたってね」
「口を慎めよ。お前がそんな風に言っていい女性じゃない」
私が私のことを言って何が悪いの。
「じゃあ、もし実際に会った時にキースが思い描いていた女性じゃなかったら、貴方は一体どうするの? それでもマーシャリィ・グレイシスだからって好きになるの? 貴方の理想とした女性ではないのに?」
それは不思議な感覚だった。好きにすればいいって放っておいたはずなのに、いったん口から文句が出てくると止まらない。
「それって、凄く失礼だよね。だってマーシャリィ・グレイシスという名だけが好きって言えるのでしょう。人となりとか中身とか知らないで好きになれるものなんですね」
私は別に怒っている訳でもないのに、なぜか私はキースに喧嘩を売るような真似をしている。
「そういうお前は知っているのか。マーシャリィ・グレイシスを」
「当然でしょう。マーシャリィ・グレイシスのことをこの世で一番知っているのは私だわ」
キースは信じないけど、本人だからね。
「それはお前が彼女の替え玉だからか…?」
「あはは、どう思ってくれても構わないわ。でも私は嘘を言っていない」
キースの言うマーシャリィ・グレイシスと、ここにいる私は似ても似つかない全くの別人だ。悲しいかな、私はそんな超人的な人間にはなれない。
「マーシャリィ・グレイシスは婚約者に捨てられたのよ。女として落第点がついているの」
このセリフを私は何度口にしてきただろう。言えば言うほど、情けない気持ちになる。
「キースの言っていた評価も、マーシャリィ・グレイシス一人で成し遂げた物は何一つないわ。誰かの力を借りなければ、一人では何にも出来ないのよ」
それなのに名前だけが独り歩きをして、勝手に期待を寄せてくる。それが嬉しくないかと言えば嘘になるが、それ以上に期待に応えないといけないと言うプレッシャーは重くのしかかる。一人では何も出来ない人間にそれは辛すぎるのだ。
「現実を知った時のキースの顔を見るのが、私すっごく楽しみ。どんな顔をしてくれるのかしらね」
ここまで言い切って、自分の性格の悪さに吐き気がした。こんな意地悪を言わなくても良いのに、なんで言ってしまったのだろうという後悔が頭を過ぎる。
キースから怒りを抑えつけるような大きなため息が聞こえ、更に後ろめたくて身体が竦んだ。
「……………………ごめんなさい。言い過ぎたわ」
謝ってももう遅い。放ってしまった言葉は取り返せない。
「許す、とは言えないな。でもお前が彼女を語っているのを聞いたら胸が苦しくなった……」
「うん、だからごめんなさい。謝るわ」
キースの好きな人を私が侮辱したのだから、それは当然だ。
「勘違いするな。彼女に対しての暴言には腹が立つが、俺の胸が苦しくなったのはお前が苦しそうだからだ」
「…………」
「それで俺が気に障るようなことを言ったんだろうな、とは気付いた。でも俺からは絶対に謝らない。謝るとお前の暴言を認めるのと一緒だからな。俺はマーシャリィ・グレイシス嬢がそんな女性だとは微塵も思っていないし、お前に言われたからといって意見は変えない」
「……うん」
キースはそれで良いのだろう、と今度は捻くれずに素直にそう思えた。
「だが謝罪は受け入れる。それでお前は満足するといい」
「うん。ありがとう」
自信過剰な勘違いナルシスト野郎だと無意識に下に見ていたキースに、人間の挌の違いを見せつけられたような気がした。年上の私よりよっぽど大人だ。これは小娘扱いされても仕方がないかもしれない。何となく、そう自嘲している私がいた。
「……少し急ごう。雨が降り出しそうだ」
「え?」
言われて空を見上げると、遠くに雨雲が見えた。風向きからして雨が降り出すまでそう時間はかからないだろう。
「おい、顔色が悪いぞ。歩けるか?」
「大丈夫、もたせるわ。予定通り進みましょう」
「分かった。無理するなよ」
私は頷いた。無理をするのは却って迷惑をかけてしまうのは分かっていたけど、この空気に耐えられなかった。自分が招いたことのくせにね。
「…………ごめんなさい」
私はキースには聞こえないくらいの小さな声で呟いた。




