第20話
キース殿が言うように、しばらく歩いた先には古びた小屋があった。
ギィと鈍い音をさせてドアを開けば、途端に埃っぽい臭いに鼻に思わず咳き込んでしまう。
「ご令嬢にはきつい場所だとは思うが辛抱してくれ」
「いえ、大丈夫ですわ。気を遣わなくても結構。今はそれ処ではありませんから」
今にも崩れそうな小屋ではあるが贅沢は言ってられない。自分の命と天秤にかけるまでもない。
小屋に入り、ぐるりと見渡す。確かに全体的にボロボロではあるが、最低限必要なものが揃っていそうだと、雑然と棚に並べられた物を見て思った。身を隠し、装備を整えることができるのなら何の問題もない。
「まずは服を乾かしましょう。風邪をひいては元も子もないですからね」
小屋にあった恐らく村人たちが毛布として使っていたのだろう大きな布を広げた。使い古されたそれは多少の臭いもあったが、大きさ的に丁度良い。
「はい。服を脱いでこれにくるまって下さいな」
私はキース殿にその布を手渡し、そして早く脱いだものを寄越せと手を広げた。
「……は?」
キース殿はポカンと口を開けて、それからいやいやと頭を振った。
「待て待て。まずは貴女が先に乾かすべきであって、俺はその後で十分だ」
その返答に、私も負けずにいやいやと頭を振る。
「いいえ、キース殿が先です。貴方には村までひとっ走りして服を調達して貰わねばなりませんから、私が後です」
ドレスはそう簡単に乾く代物ではない。居場所を感づかれるかもしれない恐れから、火を熾すことが出来ないのを踏まえると、シャツとズボンを先に乾かして村で洋服を調達してきて貰った方が早いという判断での行動である。
「貴女はご令嬢だろう?」
ご令嬢なら自分を優先するのが当然という考えは分かる。騎士なら尚更、守護する立場からも言いたいことは理解するのだが、正直問答するのが面倒くさい。
「ガタガタと言っている暇はありません。異論は聞かない。さっさと脱いで!」
途中から口調が乱暴になってしまったが、もう知ったことか。私だっていつまでも濡れたドレスを着ていたいわけではないし、着替えがあるのなら真っ先に着替えているわ。頭では緊急事態なのは理解していても、どうしても男性の前に下着姿になることに抵抗があるのだ。こんな男前が私を襲うなんて烏滸がましいことを考えているのではないが、どうしても羞恥より恐怖が勝る。それをわざわざ懇切丁寧に説明している暇はないのだ。
「だが…」
「だがもくそもございません。それとも何です。私の手で脱がして差し上げましょうか!」
「っ!」
なかば脅迫である。口ではそう言うが、出来もしないのは自分でも自覚している。だが、私の剣幕に押されたキース殿は、渋々紅蓮の隊服に手をかけた。
「よろしい。ではシャツを絞りますから渡してくださいませ。ズボンはご自分でお願いしますわね」
「承知した………」
観念してくれて何よりです。手渡されたシャツは当然ながらびしゃびしゃだ。力の限り絞るとビタビタと音を鳴らして地面に吸い込まれていく。
「よし、これくらいなら移動している間に乾いてくれるでしょう」
パンとシャツを広げ、最後の水を弾き出して私は言った。
「ズボンはどうですか?」
「……こちらも問題ない」
私が必死にシャツの水を絞っている間に、早々とズボンを履き直しているキース殿。流石男性の力で絞ると早いわね。そう心の中で思いながらシャツを手渡した。
「ではキース殿。私はここで隠れて待っていますので、ひとっ走り行って来て下さいな」
出来れば全速力で、と私は微笑む。
「…………貴女は……いや、何でもない」
んん?? 何、その含みのある言い方。
「承知した。直ぐに戻る」
他に言いたいことがあるのだろうが、キース殿は思い直したように私に言った。
「えぇ、よろしくお願いしますわ」
だから私も追及せずに見送ったのだ。気になりはするけれど、今の優先順位はそれじゃない。
キース殿が小屋から出て行って一人になると、私はおもむろにドレスをたくし上げた。誰も見ていないと分かっていても、とりあえずはキース殿の使っていた毛布で包みながらだ。
「まさかこれが役に立つなんてねぇ…」
私は呟き、たくし上げたドレスの下にあるポーチを取り出した。
「ダグラス様、感謝」
アネモネ宝飾店でダグラス様に貰った餞別。それはこの太ももにベルトで付けられるポーチだったのだ。中には小さな折りたたみナイフ、油紙に包まれた薬が数種類と着火灯、そして共通貨幣が入っている。
あの日、メアリと一緒に箱を開けてこれを見た時にはかなり吃驚した。女性に対しての贈り物では絶対にありえないチョイスである。
案の定メアリには大爆笑されたし、私も首を捻る以外は出来なかった。まぁ、ダグラス様に女性が喜びそうな贈り物をされた日には、何事かと別の意味で驚きはするが、あの人は一体私を何だと思っているのかとあの時は思ったものだ。
ダグラス様が何を思ってこのポーチを餞別でくれたのかは分からないが、実際はこれである。これから大活躍する予感しかない。
私はボロボロになった髪を解き、身に付けていた宝飾品全てをポーチの中にしまい込み、いつキース殿が戻ってきてもいいように準備を整えた。あとはキース殿が持ってくるであろう服に着替えるだけだ。
それから息を潜めじっと待つこと数刻。
「…………?」
直ぐに戻ると言っていたキース殿が中々帰って来ないことに不安を感じ始めていた。
小屋に着いた時は高かった太陽が少しずつ陰り始め、あと数刻もすれば夜がやってくるだろう。このままキース殿が戻って来なかったら、暗闇の中で待つことになるのだ。それはさすがに勘弁願いたかった。まさかこんなに時間が掛かるなんて思いもしないで、さっさと行けよと言わんばかりにキース殿を追い立てたことに今更ながらに後悔が募る。
「まさか、何かあった……?」
そんなことは考えたくもなかった。もしキース殿が追手に見つかっていたとしたら、いくら待っていても彼は戻って来ないかもしれない。その場合、私はどうなる。どうすればいい。陽が完全に落ちる前に場所も分からぬ村を探しに小屋を出るべきか。もしくはキース殿が戻ってくる可能性を信じて、一晩暗闇の中で待つべきなのか。
不安に襲われている中、頭に蘇るのは屋敷の半地下で囚われた数日間のこと。
あの時みたいに囚われている訳でも、女性としての尊厳が危ない訳じゃない。命を狙われているというのも確証があるわけでもないのだ。そしてその山賊が私を探しているかもしれないのも只の想像でしかないじゃないか。
探しに出るのは簡単だ。小屋を出て村までの道を探せばいい。でもそれが出来るのは陽が落ちるまでの数刻の間。もし道が見つからなかったら、闇夜の中を外で過ごさなければいけなくなる。
「……あぁ、もう!」
口から出るのは、どうしようもないことへの苛立ちだ。
どんなに考えても行動に移すだけの決断ができないまま、陽はどんどん落ちて行き、結果的に小屋で待つしかない状況となったのだ。幸いだったのは、月明りが思っていたより明るくて真っ暗闇ではなかったことだ。これなら多少不安も薄れる。覚悟をもう決めるしかない。
だが待てども暮らせども、ちっとも戻ってくる様子のないキース殿。心配をすればいいのか、もしくは見捨てられたのかもと悲嘆に暮れるべきなのか。今はひたすら待ち続けるだけ。
私は月明りの届かない小屋の隅っこで、頭から毛布を被り小さく縮こまり息を潜めていた。もしキース殿以外の人が侵入してきても、雑然としている小屋の中で暗闇に紛れてくれるかもしれないという淡い希望を抱いての悪あがきである。
小屋の外からは虫の音が聞こえていた。
このまま待っていたら、キース殿ではなくてグラン国から同行している騎士が迎えに来てくれはしないだろうか。でもどれくらい流されたのか、そして襲撃場所からここまでどれくらい時間がかかるのかも分からない。そんな希望を持つには、悲しいかな可能性が低すぎる。
もうどれくらいそうしていただろう。刻々と時間が過ぎ去る中、小屋の外から微かに聞こえる足音に私は身体を竦ませた。ゆっくり、ゆっくり、でも確実に小屋に向かってくる人の気配。
キース殿ではない。それは瞬時に悟った。だって彼ならこんな慎重にする必要性がないから。
「……っ」
心臓が緊張のあまり恐ろしいくらいに鳴り始めた。手の中には小さなナイフを握り締め、どうかこの悪あがきが通用しますように、と心の中で叫ぶように祈る。
ギィと軋みながらドアが開き、そこから姿を現したのは背の高い男性。シルエットでフードを被っているのは分かるが、顔の判別はつかない。
ぐるりと見渡すようにフードが揺れ、そしてピタリと私に照準が当てられた。
「……ひっ」
思わず喉から引きつった声が零れ、間違いなく私の居場所がバレただろう。男は静かな動きで腰にある剣を引き抜き、ゆっくりと剣先を私に向けた。
「貴様、名は?」
男はくぐもった声で私に問うてきた。布か何かで口元を覆っているのだろう。それはつまり私に顔を見られたくないからだろう。
「……そういう貴方はどなたです?」
震える声でそう言い返す。
「名を言え」
頑なに私の正体を探る男。問答無用で切り殺されなかったということは、やはり私がマーシャリィ・グレイシスだという確証が欲しいからなのか。
「先に貴方が名乗りなさい。まずはそれからです」
私は覚悟を決め、剣先を向けられながら恐る恐る立ち上がる。落ち着いて、じりじりと近づいてくる男から目を離さないで、じっくりと時を待つ。逃げ出すチャンスはきっと一瞬。
「貴様の名を……あ?」
ツンと何かに引っかかり男がたたらを踏んだ、その瞬間を私は待っていたのだ。
「ふん‼」
私は被っていた毛布を男の視界を塞ぐようにして放り、用意していたロープを力いっぱいに引っ張った。途端に男を襲い掛かるのは古びた棚である。これはキース殿を待っている間に私が作った罠だ。
「なぁ⁉」
ガラガラガッシャーン、とけたたましい音と、男の慌て踏めく声を無視し、横をすり抜け小屋を飛び出した。
「待てっ!!」
そう言われて待つ人はいない。私は制止を振り切り、全速力で林の中に逃げ込んだ。
こんなこともあろうかと準備をしていたのが功を奏した。ドレスは走りやすいように膝辺りまでナイフを使って引き裂いていたし、その残骸である切れ端でなんちゃってロープを作り、棚が倒れるように括り付けていたのだ。ボロボロの棚だったから出来ることだ。成功して良かった。おかげでまだ生きていられる。
だが安心するのはまだ早い。男は直ぐにでも追いかけてくるだろう。林を走る音で私がいる方向は分かるはずだ。だから追い付かれる前にどこかに身を隠さないといけない。でもそれはどこに隠れればいいのか。どこにも隠れそうな場所が見当たらなくて、それはもう途方に暮れた。
後方から近づいてくる男の足音。小屋で待っている時は、月明りが明るくてホッとしていたのに、いまはその月明りのせいで私の姿は男からは丸見えだ。せっかく林に逃げ込んだのに、伐採した後だったのだろうか、月明りから私を守ってはくれなかった。
「ひゃ…っ」
男が近づいてくる、そのあまりの恐怖で足がもつれ、私は勢いのままに前方へ倒れ込んだ。慌てて立ち上がろうにも、首筋に背後から当てられた剣の刃に身体はピタリと硬直してしまった。
「はぁ、はぁ、やってくれるな」
とうとう追い付かれた。せっかく一度は逃げ出せたのに、元の木阿弥だ。脳裏には絶体絶命、そんな文字が頭に過ぎる。
私はごくりと息を呑み、ゆっくりと後ろを振り返り男の姿が視界に入る。月明りに照らされた男の姿に、私は血の気が引く絶望を感じた。




