第19話
これは死んだかもしれないな、と崖下に落下していく中、私は自棄に冷静にそう思った。上からはシエルの絶叫がしていたが、それも落ち行く私には遠ざかっていくばかり。どんなに手を伸ばしても届く訳もなく、私は死を覚悟して瞳を閉じた。
頭の中に浮かぶのは、マイラ様に陛下、マリィもライニール様もメアリもガスパールも。そしてリアム君にダグラス様。もちろん父や兄の姿だ。シエルには心の傷を残してしまったかもしれない。大切な人達の笑顔が浮かんでは消え、その度にごめんなさい。先に逝く私をお許しください。と必死に謝った所で、耳に届く水の流れる音に我に返った。崖下には川が流れている。これは助かるかもしれない。
諦めるのは早い、とカッと目を開けた私の視界いっぱいに入ってきたのは、私に手を伸ばして落下している見知らぬ男性。しかもかなりの男前。
「……は?」
危機的状況で出すにはあまりにも場違いな間抜けな声が出た。
「息を止めろ…っ!」
有無を言わさぬ命令に思わず従って息を止めた次の瞬間、私に身体を包み込む温もりと大きな衝撃が襲った。
その後は何が何だか。分かるのは冷たい水と身体にまとわりつくドレス。そして冷たい水とは真逆な温もりだ。
その温もりは水の抵抗をものともせずに、ぐいぐいと力強く私の身体を引き上げる。私の身体は決して軽くはないし、水を吸ったドレスは重いはずなのに、気が付けば私は岸に上げられていたのだった。
「ごほっ、は、ごほっごほっ……っうぇ、えぇ!」
限界まで息を止めていた身体は空気を求めるものの、多少の水を飲んだ私は咳き込むばかり。何よりあれだ。元から馬車酔いで限界の来ていた私は、それはもう盛大に胃の中身をぶちまけた。
「お、おい、大丈夫か」
男性の目の前で嘔吐するなんて、25年間生きていて初めて。生きているという実感よりも、その事が恥ずかしく堪らない。けれど嘔吐は自分の意思ではどうにも出来なかった。
「落ち着け、大丈夫だから」
背中を摩る温もりは、確かに水の中で触れたものと同じだ。つまりは命の恩人様である。
「も、もう、大…丈夫です。みっとも、ない姿をお見せして、申し訳ございま、せん」
息も絶え絶えながらも、なんとか背中を摩っている男性を見上げて、思わず二度見。
「いや。気にしなくていい」
「……ひゃ、い」
そう窺ってくる男性に声がひっくり返った。いや、何と言うか落下している時も思ったけれど、これはとんでもない男前である。髪から滴り落ちる水が男前度を上げているというか、これこそ正に水も滴るいい男。しかも口元にあるほくろが何かいやらしい。ライニール様もラウルも容姿は整っているけれど、この人から漂うのは男の色気だ。うっひゃあ。
「少し顔色が良くなったな。動けるか?」
ひぃ、すっごい良い声。なんか耳がこそばゆい! ちなみに顔色が良くなったように見えるのは間違いなく色気に当てられたからである。口には出せないけどね!
「え、えぇ。大丈夫です」
「無理をさせて悪いが、直ぐにでもこの場から離れたい」
厳しい表情でそう言う男性の言葉の意味。それは私たちを襲った山賊の一味がまだいるかもしれないということを指している。
「……そうですわね。私は大丈夫です」
呆けている場合ではない。本来あり得ない場所で山賊が現れたこと、そして馬を暴走させてまで馬車を崖に落とそうとしたことから、特例親善大使の命が狙われたのは明白だ。
私は立ち上がり、水を含んだドレスを軽く絞る。ボタボタと流れ出る水を見て、崖から落下する時の恐怖が頭を過ぎるが、小さく頭を振って気を取り直す。
私が襲われた理由。恐らく男性は何かしらの事情を知っている筈だ。だが今は聞き出すよりも、この場を離れるのが優先だ。
今日の衣装に旅行用のブーツを選んだシエルに感謝。もしヒールを履いていたなら、川に落ちた時に脱げていただろう。そしてどれほどの距離があるか分からない道のりを裸足で進む羽目になっていたはずだ。
「さぁ、行きましょう」
そう言って、私は色気むんむんさん(仮名)と歩き出した。方向は川下。つまりは河口方面だ。目指すは逸れたグラン国一行との合流である。
「噂に違わず……」
と、頭上から聞こえた台詞に視線をやると、男性は私を興味深そうに見下ろしている。後半は聞こえなかったが、その噂とやらはどんな噂なのか。そしてその発信源は誰だろう、と思いを巡らして途中で放棄。誰が噂したとしても、今更大した問題ではない。
「……申し遅れましたわ。私の名はマーシャリィ・グレイシス。グラン国特例親善大使を任命されております。命を助けていただき大変感謝しておりますわ」
冗談抜きで私一人だったら死んでいた。川に落ちた衝撃も想像以上に凄まじいものだったし、何より水を吸ったドレスがこんなに重いとは。泳げると言っても、こんなドレスを身に着けたままでは、どんなに藻掻いても水の中で力尽きていただろう。
「クワンダ国近衛隊の騎士様。貴方のお名前をお伺いしてもよろしくて?」
ドレスの重みに負けずに歩きながら、私は色気むんむんさんに問うた。身に付けている物から、彼がクワンダ国近衛隊の人間だというのは直ぐに分かったけれど、それ以外は知らないのだ。この先行動を共にするのなら、名前くらいは知っておきたい。さすがに『色気むんむんさん』なんて勝手につけた仮名で呼ぶ訳にもいかないし。
「俺を知らないのか……?」
ん? である。
「申し訳ございません。存じ上げませんわ」
だから訊いたんですけど、なぜにそんな訝し気な顔をしているのだろう。
「俺を知らないのに、なぜ近衛隊の人間だと思った?」
おや、これはまた更に予想外の反応である。
「は……、いえ、貴方のその紅蓮の隊服と剣についている紫色の飾り紐で判断いたしましたが……?」
私がグラン国の人間だから知らないとても思ったのだろうか。だが、言ったように色気むんむんさんの隊服はクワンダ国近衛隊独特のものなのだ。
クワンダ国王族は、必ず赤髪と紫色の瞳を揃いで所持しているのが特徴である。
赤髪だけなら、そう珍しいことではない。シエルも赤髪だし、実際に隣を歩いている色気むんむんさんも同じように赤髪、しかも見事な血紅玉色だ。また紫色の瞳を持つ人間も少ないとはいえ存在は確認されている。だが赤髪と紫色の瞳を揃いで持つ人間はクワンダ国王族でしか存在していない。そのことから赤と紫はクワンダ国王族の象徴とされているのだ。だから紫は至高の色として王族しか身に付けることを許されていない。唯一王族以外に許されているのは、王直属の近衛隊に与えられる飾り紐だけ。また王族を守護する近衛の隊服は赤色が基本なのだ。
「これで近衛隊以外の人間だったら、逆に驚きますわ」
クワンダ国でその色を許可なく身に付けているだけで、首は文字通り飛んで行ってしまうからね。
「……そう、だな」
ですよね。私、何も変なことは言っていないよね。
「これは失礼した。俺の名はキース・ミラー。貴女の仰るようにクワンダ国近衛隊に所属している」
「いいえ、こちらこそ。ではキース殿。まずは私たちのこの恰好をどうにかしないといけませんわ。近くに身なりを整えられる場所をご存じですか?」
なるべく早くグラン国一行と合流しなければならないが、がむしゃらに向かった所でこんな濡れねずみでは無駄な時間を取られるだけ。盗賊の狙いが私なのなら尚更、身を隠すのにドレス姿は人目につく。
「この先に近くの村人が使用している古い小屋があるはずだ。まずはそこに身を隠して装備を整えよう」
よしよし、キース殿は大体の地理を把握できているようだ。大分流されたようだったから心配だったが、これなら大丈夫そう。
「承知致しましたわ。では急いで小屋へ向かいましょう」
何か変な空気があったものの、特例親善大使を助ける為に崖から飛び降りる胆力。そして流された自分達の位置を把握できる知識に、この人は顔だけではなく能力もあり頼りになる人で良かった。そう私は思っていたのだ。
だが、あくまでもその時は、であるのに気付くのはこの後すぐのことだった。




