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お料理好きな福留くん  作者: 八木愛里
第三章

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29.取引先からの誘い


 耳を疑うセリフとは案外近くにあるものだ。

 私の場合は、青木会計事務所の打ち合わせの部屋にてそれを聞いた。


「真島さん。うちに来ないか?」


 取引先の㈱三俣商事の取締役社長から、お茶でも誘うような軽い口調で言われた。最初は冗談かと思った。社長は、口ひげの端に笑みを浮かべている。

 だが、社長の目は真剣そのものだった。数秒考えて、冗談ではなく、引き抜きの話だと理解する。


「もしかして私は、御社にスカウトをされているのでしょうか」


「もちろん。取締役待遇で経理社員になってもらえないかな」


「三俣商事様で経理社員……」


 三俣商事といったら、上場企業で名前が通っている。社内の雰囲気も良く、働きやすい職場だと、外から見ていてもわかる。

 そんなところから誘いがかかるなんて思ってもみなかった。


「私で大丈夫なんでしょうか」


「君がいいんだよ。経理の視点から会社を改善していってほしい」


 だが、すぐに了承ができる案件ではない。慎重に考えなくては。

 そう思って、社長に頭を下げる。


「ありがとうございます。でも、私一人のことではないので、考えさせていただいてもよろしいでしょうか」


「返事はすぐでなくて大丈夫だ。もし、うちに来る気持ちがあれば歓迎するよ」


 社長は見定めるように私のことをじっと見ている。大企業の社長というのはピリッとした独特なオーラがあった。




 提示された条件は今の職場よりも良かった。事前に今の職場の状況をリサーチして、本気で引き抜きを考えてくれているらしい。


 家に帰ってからも夢見心地だった。

 湯船に浸かり、湯気で曇る天井を仰ぎ見る。イルカのモビールが釣り下がっていた。


(三俣商事に行ってみたい……。でも、お世話になった先輩、可愛がっている後輩のことを考えると、ここを離れたくないな……)


 秋山課長には仕事の相談を沢山した。後輩の福留くんには、仕事のアドバイスをすることもあったけど、プライベートでは料理を教えてもらった。


 引き抜きの待遇面は良かったけれど、慣れ親しんだ職場を離れることには迷いがあった。

 お風呂に肩まで浸かって、仕事の疲れを癒すようにそっと目を閉じる。


(どうしよう……)


 一人で悩んでも、答えが出ないような気がした。




 朝、会社に着くと決意を込めて所長室のドアをノックする。一人で考えても意味がないなら、誰かに相談するしかない。

 だけど、緊張のあまりに手が震えた。


「すみません、所長。相談があるのですが」

「真島さんか。どうぞ」


 ドアを開けると、所長は植木鉢に水をやっているところだった。

 日の光りにあたりながら、目をすがめて私を見つめる。


「思い詰めた顔をしているなぁ。どうした、話してごらん」

「あ、すみません」


 言われて初めて、自分の顔が険しくなっていることに気づく。まったく、恥ずかしくなってしまった。考えていることが顔に出てしまうくらい悩んでいるとは。


 席に座っても、なかなか切り出せなかった。

 所長は私が話し出すのを待ってくれており、一つ息を吸って、話し始める。


「所長……。実は私、担当している三俣商事の社長から、引き抜きの話をいただきました」


「ああ、あの社長ね。前から真島くんを欲しがっていたからねえ」


 あっさりした反応だった。まるで、来る時期がやって来たような言い方だ。


「ご存じだったのですね」


「まあね。でも、真島くん。私に相談するということは、決心がまだ付いていないということじゃないかね」


 心を読まれた。迷っていて判断ができなくなっているのを見抜かれた。


「ずっとこちらでお世話になったので……。勝手に抜けるというのもどうかと思いまして」


「会計事務所としては真島くんが抜けるのは大きな痛手だ。でもね、君の人生なんだ。真島くんのやりたいようにしなさい。僕たちは、反対はしないよ」


 これでは相談という形をとりながら、自分で予防線を張っているみたいだ。

 私は、キッと前を見据える。新しい環境に入るというのは、覚悟を決めることだ。私にとっては、今がその時なのだ。

 一度こうだと決めたら、それに向けて突き進まないといけない。


「……ありがとうございました。決心を固めてから、また報告します」


 応援しているよ、と言われて、所長室を出る。

 扉を閉めると、無意識に止めていた息を吐き出した。


 新鮮な酸素が胸の中に行き渡る。

 さあ、ここからなのだ。




「真島さん」

 昼休みになると、福留くんが私のデスクの方までやってきて話し掛けてきた。周りは、昼休みを買いに出かけた人、席を外した人ばかりで、残っている人は少なかった。


「引き抜きの話が出ているようですね」


 直球で本題に入られた。私は観念したように苦笑いをする。


「福留くんにも知られていたのかぁ」


「聞くつもりはなかったのですが、社内で噂になっていましたよ」


 おそらく、打ち合わせのコーナーから声が漏れてしまったのだろう。遠巻きに見られている気がしたのは噂が広がっているからだったんだ。


「……お節介かもしれませんが、真島さんはステップアップしていく方だと思います。この会社で学ぶことがなくなったら、次の会社で頑張ってもいいと思います」


 福留くんは、私の背中を押してくれるようだ。


(でも、私が転職すると会えなくなっちゃうんだよ。福留くんはどう思っているの?)


 この間告白を断ったばかりなのに、私は一体何を考えているのだろう。

 それでも自分の気持ちを抑えられずに、つい意地悪な質問をしてしまう。


「福留くんは、それでいいの?」


「え……」


「ううん、なんでもない。でも、福留くんは、私がこの会社で学ぶことがなくなったと思っているんだね」


「少なくとも、僕の目にはそう写りますから」


 随分な過大評価だ。でも、福留くんのまっすぐな目が今は嬉しい。


「ありがとう。そう思ってくれて嬉しいよ」


 福留くんは、素直に背中を押してくれているのだ。

 なのに、この心の中のモヤモヤは何だろう。

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