26.福留くんのリゾット
「ケホッ、ケホッ」
私が朝、起きたときに感じたのは体の不調だった。
咳が出て、起き上がろうとしたら上半身が重い。
ぶる、と寒気が走った。
時計を確認すると、まだ数分は眠っていても大丈夫だ。
布団の中に潜り込んで、もう一眠りしようとする。
「ケホッ」
喉の違和感がおさまらなかった。
パジャマが冷えており、ひどい汗をかいて、それが冷えたのだろうと推測できた。
布団の中にいる方がかえって寒くて辛くなり、天井を見る。
いつも見慣れているはずの天井が、ぐるぐると回っているように見えた。
昨日のくしゃみは風邪の兆候だったのだ。こんなことなら、もっと栄養のあるものを食べればよかった。万全な状態にしておけば、風邪まで悪化することもなかったかもしれない。
税理士は接客仕事で体が資本だ。
風邪なんて引いていられないのに、気持ちとは反対に体が思うように動かない。
(熱、計ろう……)
左わきに差し込むと、その冷たさが気持ちよかった。
前に風邪を引いた時には、体温計を冷たいとは感じなかったのだ。
今日は結構熱が出ているかもしれない……。
そう思って待つと、体温計が鳴った。
見ると、38.3度を示した。
(これはダメかも)
体調不良の生産性の悪さは、今までの経験で痛い程に分かっている。スケジュール帳にザッと目を通して、細く長く息を吐いた。どうしても今日行かなければいけない予定はない。
スマホの通話履歴から、会社を選んで発信する。
「もしもし、真島です。……福留くん? 秋山課長に代わってもらえるかな」
福留くんが戸惑いの残る声で「ちょっとお待ちくださいね」と言うと保留の音楽が流れる。その音楽ですら、耳に響いて辛かった。熱のある時には、色々なものに対する耐性が減ってしまう。
それにしても、まだ八時前なのに福留くんは出社していた。朝早くから、本当に偉い。
『どうした』
秋山課長が心配そうな声で電話に出る。
面と向かって話している時は感じないが、スマホを通しての声はいい声だ。声だけでいうと会社の中ではナンバーワンだと思う。
「秋山課長。熱が38度を越えまして……。周りに移してもいけませんし、今日は休みたいのですが」
『そうか。確かに、声もちょっとおかしいからな。分かった、ゆっくり休め』
課長の言葉をきいて、ホッと胸をなでおろした。
風邪で休ませてもらえるのは本当にありがたい。
「……ご迷惑をおかけします。予定のキャンセルの電話は自分で入れておきますので……」
『ああ。土日で頑張って直せよ』
「はい。秋山課長もお気をつけて」
電話を切ると、無意識に硬くなっていた肩から力を抜く。幸いにして、今日が金曜で土日は休みだ。今日はゆっくり休もう。
しかし、布団の中にいると生活音が妙に気になってしまう。
時計の針の音。冷蔵庫の音。シーンという沈黙すら、この部屋の孤独の中で鳴っている気がする。
部屋の外からは、スズメたちの鳴き声が聞こえた。
風邪を引いた日の一日は早い。
うつらうつらと眠り、たまに起き上がって水を飲み、また眠りにつく。
ふと目が覚めると、空が赤かった。カラスの泣き声が響き、スズメたちは寝床へと向かっている。あっという間に夕方になっているのだ。
布団から這い出して、水を一杯口にする。体に染み渡るようだ。
(一人暮らしってこういうときに不便だよね)
勝手に食事が出てくる生活とは違う。
食事の用意も片付けも一人でやらないといけない。
看病してくれる人もいないし、ポカリやゼリーを買ってきてくれる人もいない。
何より、辛いときに一人でいると、どんどん気持ちが落ち込んでいくのだ。
ぷるぷると頭を振って、ヨシッと気合を入れる。
まずは何でもいいから食べるのが先決だ。
(ご飯はなるべく作るようにしていたけど、風邪のときくらい楽をしちゃおうかな……)
シンク下に備蓄しておいたカップ麺に手が伸びる。買い溜めをしておいたおかげで種類は選び放題だ。わかめうどん、きつね蕎麦、味噌ラーメン……。
風邪で弱った胃にはよくないと分かっているが、買いに行く気力はなかった。
コンビニに行くにしてもパジャマから着替えなくてはいけない。
普段なら何でもない事なのに、風邪になると途端に体が億劫で動かなくなる。
うどんのカップに手が伸びたところで玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
モニターに映し出されたのは、スーツ姿の見慣れた男性だった。
「あの、福留ですけど……」
「福留くん?」
私は驚いて目を見開いた。
福留くんは手に持ったビニール袋を持ち上げる。
「風邪ですよね。色々買い出ししてきたんですけど」
つまり、入れてくれ、ということだ。慌てふためいてしまった。
今はパジャマ姿だ。それも汗に濡れている。
熱のせいで頭もボサボサだし、肌もかさついている。
このまま玄関先に出て、福留君に減滅されるのは困る。
取り急ぎジーンズとTシャツに着替えた。少し、さっぱりした気がした。
玄関を開けると、福留くんが不安そうに入ってくる。
「お邪魔します……」
「そんな怖がらないでよ。取って食べたりしないし」
「そうじゃなくて。心配してるんですよ」
「うーん。多分大丈夫だよ。ずっと寝ていたんだけど、土日で回復できそう」
「……ならいいんですけど。あの、真島さん。よかったら僕が何か作りましょうか」
福留くんの申し出はありがたかった。
風邪を引いている今、この家に来てくれたというだけで天使に見える。
しかも、手にはスーパーの袋。わざわざ買ってきてくれたのだろう。
好きな人が人がいたら、体調が悪いときに看病に行けと巷ではよく聞く。
その理由がよく分かった気がした。
でも、その好意に甘えるわけにはいかない気がした。
「迷惑かけちゃうし、大丈夫だよ。カップ麺でも食べようとしていたから……」
言ってから気づいた。福留くんにとっては禁句だったことに。
訂正しようとしても、もう遅い。福留君は開けたままのシンク下に眼をやり、片目を細めた。睨んでいるような目だ。
「カップ麺ですか? もっと栄養をつけないと、回復が遅くなりますよ」
怒ったように言う福留くんに、私は体を縮まって「ハイ」と答える。
まるで親に怒られた子どもみたいだ。
「キッチン貸してくださいね」
「お、お願いします……」
福留くんの気迫に、首を縦に振るしかなかった。
「料理ができたら寝室まで持っていくので、ゆっくりと休んでいてくださいね」
「そんなの悪いよ。ちゃんとこっちで食べるから大丈夫」
「僕がそうしたいんです。さぁ、熱のある人は休む!」
寝室に押し込まれてしまって、私は仕方なくジーンズをはき替える。
昔の高校ジャージを着て、ジャンパーを着てベッドの中に収まった。
こんな姿は見られたくないなと思いつつ、熱のせいかウトウトしてしまった。
ドア越しに野菜を切る音が聞こえる。鍋を火にかける音も耳に届いて、幸福感が私を包んだ。人に看病してもらうというのは、こんなにも嬉しいことなのか。
(私、今世界一幸せかもしれない……)
福留くんのお手製の料理が食べられるなんて贅沢な話だ。思わず顔がにやけてしまう。
アパートに自分以外の人の気配があることがたまらなく嬉しいのに、そこにお手製の料理だ。人の優しさに飢えていたのだと実感して、私は苦笑する。
(食欲がそそるにおいだな……)
クリームソース系の香りが漂ってきた。
牛乳の中にバターを入れて煮たような優しい香り。
懐かしい、お母さんが作ってくれたようなにおい……。
その幸福な匂いに包まれて眠気にあらがっていると、扉をノックする音が聞こえた。
起き上がって扉を開けると、福留くんがお盆を持って現れた。
「真島さん、できましたよ」
楕円形の皿からは、湯気が立ち上っている。
「わあ……。ありがとう!」
「ほらほら。病人は体が冷えないうちに、早く布団に入る!」
福留くんに言われて、いそいで布団に向かった。
簡易テーブルを布団の上に置いて、お皿とスプーンをセットしてくれた。
「玉ねぎとベーコンを入れたリゾットです。お口に合えばいいのですが」
「においからして、おいしそうだってわかるよ。いただきます」
スプーンをお皿の中に入れた時から、おいしそうだという期待感が体中をかけめぐった。上に乗ったチーズは、外はカリカリ、中はトロトロだ。スプーンに乗った姿のおいしそうなことといったら!
「そんなに見てなくていいですから。ほら、早く食べて下さい」
「はーい」
息をふうふうと吹き掛けて一口食べる。
おいしいことは、嬉しいことだ。
眼をパッと見開くほど、嬉しいという感情が体を支配する。
「おいしい! ちょっと胃に重いかなと思ったけど、意外とサッパリしてて食べやすいよ」
「油が少なくなるように、ベーコンの脂肪を取ってるんです。胡椒も少なめですけど、かわりに牛乳はちょっといいものを使ってて」
「うーん。風邪じゃなくても、毎日食べたくなっちゃう」
玉ねぎの甘さも、リゾットを引き立てていた。ベーコンの塩気とあわせて、ちょうどいいバランスだ。
煮込まれたご飯は噛みやすくて、スプーンが止まらない。
「喜んでもらえてよかったです」
福留くんは満足げに笑うと、「片付けをしてきますね」と言って部屋を後にする。
その幸福な後姿を見送って、おいしさを噛み締めるように食べ続けた。
本当に、何杯でも食べられる気がした。シンクで洗い物をする音が聞こえて、悪いなと思う。でも今は、このリゾットのおいしさのほうが大事だった。
最後の一口を食べて余韻に浸っていると、開けたままのドアから、福留くんがヒョコっと顔をのぞかせる。
「食べ終わりましたか?」
「うん! すごくおいしかった!」
「よかった。じゃ、こっちも洗いますから」
「いや、自分の食べたお皿くらい自分で洗うよ」
そう言ったが、福留くんは、あっという間にお皿が取ってしまう。
「うう」
お皿を押さえて引っ張るが、福留くんはニコニコと笑顔ですごむ。
この顔になったら、逆らわない方が絶対にいい。
「今日ぐらい甘えてくださいね、真島さん」
悔しげな視線を送ると、福留くんはしてやったりと笑った。
こんな一つ一つの問答も嬉しくて、私はキッチンに向かう福留くんを見送る。
この一人暮らしの家に誰かがいるということ。その幸福を噛み締めた。
福留くんが洗い物をする音を聞いているうちに、私はまた眠ってしまったらしい。
夜半、額から何かがずり落ちるのを感じて、目が覚めた。
額に置いてあった、濡れたタオルがベッドに落ちたのだ。
(あれ……)
こんなもの、用意したっけと記憶を探る。
そういえば、福留くんが家に来てくれたような気がする。でもあれはあまりにも、自分に都合の良い夢だ。そもそも福留くんを見送ってすらいないじゃないか。
寝室を出てキッチンに立ち、一杯水を飲む。
ふと、シンクに目がいった。
水滴が一つも残らず、光を放っている。顔を近づけると鏡のようだ。
高校時代のジャージ姿が映っていて、私は目を見張る。
(シンクが綺麗になっている……!)
まるで魔法がかかったみたいだ。
そして、台所には「よく眠っているので起こさずに行きます。お大事に。福留」というメモ。
お腹に残った満足感を考えても、福留くんが来たことは間違いない。
夢じゃなかった。福留くんが仕事帰りに心配して寄ってくれたんだ。
スーパーの袋を持ってインターホンの前に立っていた彼の姿を思い出す。
(って、ノーメイクだったのが恥ずかしい。その後はジャージだし!)
両頬を押さえてしゃがみこむ。
スッピンを誰かに見られたのは初めてだ。
若い頃のように、何も塗らなくてもセーフなんてことはない。必死に隠して、やっと見られる顔になるのだから。
手で顔を覆って悶絶したが、部屋の中にかすかに残る福留くんの爽やかな匂いに、何よりも嬉しさの方が勝ってしまった。




