73.聖女は魔王と誓うの
魔王は無表情になった。そして無言。
ただアリスの手を取り、地下への階段へと誘う。怒らせたのか、囚われるのかわからない。でも覚悟を決めてアリスも先ほどとは違う道をついていく。赤い髪はクセがあり、肩甲骨のあたりまでの長さ。
無造作な髪形は切りそろえられていないけれど、艶のある髪で不潔さもなく、どちらかと言えばワイルドさが魅力。背はすごく高い、そして遠い。
距離ではなく、その向けられた背が壁を作られた気がした。でも、前からそれはなかった? 自分は彼の懐に入れることができた? 味方と思わされて、その罠の可能性。
信じていいのかわからない。イケメンで、身を任せたい気もまだあるけれど。
そして彼が足を止めたのは、一つの観音開きの扉の前。浮彫の金の鎖模様は、まるでその扉を封印しているよう。
アリスはまじまじとそれをみた。この鎖は、他の聖女を縛っていた時と同じに見える。
魔王が先に立つと勝手に扉があく、眩しさに目を閉じかけ、次に開いた時、中には無数の姿見、いわゆる大きな鏡が何に支えられるわけでもなく起立して、煌めいていた。
思わず息を呑んで、扉の前に立ちすくんだまま動きを止めてしまう。彼がそのままで促すから、先にアリスが部屋へ進む。
「これは……」
「この鏡の向こうはそれぞれ別の世界。この中から君が帰りたい世界を選びなさい」
アリスは、顎をあげてゆっくりと鏡の合間を歩く。丈も幅もアリスを上回り、魔王が歩くには、体がつかえてしまいそう。自分でも合間を通り抜けるにはやっと。
なのに彼は堂々と王者の貫禄を持ち、苦労せずアリスのあとをついてくる。
そして本来なら、アリスの姿が映るはずの鏡面は、なぜか別の人達がいる。
「これ……」
手を触れると、その中に沈み込みそうになり慌てて離す。
一つの画面は、恐ろしいことに病院だった! 見知った病棟の中で武田さんが走っている。
嫌いな医師が怒鳴りちらしている、運ばれていくストレッチャー、ガラガラと通り過ぎるのは滑車がついたレントゲン。ああ、オペの準備をしているのね。
この中にいたら、すぐに自分もその準備に加わらなくちゃいけない。
「――帰りたいかい?」
グラディウスに言われ、アリスはハッと意識を戻し、鏡から手を引いた。危ない危ない。
「いいえ、ちっとも!!」
叫ぶアリスに、若干グラディウスも驚いたようだ。ちょっと引いているみたいだ。
“逃げてきたのに”、ごめんだ。
慌てて隣の鏡を見る。そこには、イヴァンたちがいた。
「――俺が悪い」
イヴァンが呟く。皆が黙った後、いいや、と否定したのはローラン。
(あれ? いつの間に合流したの?)
主人公なのに、ずっと出てこなかったローランだ。えーと、この二区に入る時、バーサーカーになった時からだよねえ。忘れ去られた主人公。
「みすみすアリスを連れ去られてしまったのは、リーダーの俺のせいだ」
けれど、それを聞かずに陰鬱な顔をしたイヴァンが、苦し気に顔をあげて立ち上がる。
「――俺が、アリスを探しに行く」
「ちょっと、待ってよ、イヴァン」
どうやら、アリスが消えた後の場面らしい。自分がいない場所で自分のことを話されるってこそばいね。悪口言われてても別にいいもん。助産師は強いんだ!
「アリスは、いきなり何かに包まれ消えた。強大な力だ。魔王か聖王陛下かもしれない」
そう言って、レジーも立ち上がる。
「聖王陛下ならば何かお考えがあるのかもしれないが……」
「レジーも行くの?」
そう言ったのは、王女様のグレース。あれ、彼女も合流したの?
「ああ。聖王陛下にしろ、魔王にしろ。一人で行かせたくない。アリスには皆が救われていた。俺は彼女の言葉に救われた、いてくれるだけでも良かったんだ。傍にいてやりたい」
「レジーもイヴァンも負い込みすぎよ。聖王陛下なら待つべきだし……魔王ならば今の私たちではとても太刀打ちできないわ」
「だからこそ、俺が一人で行く」
イヴァンが言うと、ローランが「いいや」と首をふる。
「アリスは、俺たちの聖女だ。力不足でも俺たちで助けよう。聖王様のもとに居るならなおさら。アリスが聖女として認められるように願おう」
「馬鹿だね、みんな! アリスはとっくに私たちの聖女だよ!」
ヴィオラがそう言うと、皆が笑う。そしてヒューがヴィオラの手を取る。
「俺がお前を守ってやるからさ。安心してついてこいよ」
「私は守られてばかりじゃないよ」
顔を膨らますヴィオラに、笑いかけるヒュー。
この人たち、誰?
「みんなで、アリスを助けにいこう!!」
ローランの号令に皆が拳を握り締め上へと掲げる。
アリスは、一歩下がり、魔王を振り返る。
「なんか、私の知る人たちと違うんですけど」
魔王は、首を振るだけ。アリスは隣の鏡へと移動した。そこにも同じ姿をした皆がいる。
「俺のせいだ」
「まあ、しつこかったよね」
地獄の番人が恨めし気に語るようにイヴァンが言う。ツッコミはいつも通りのヴィオラだ。
「アリスを連れ戻す」
「しつこいよ、イヴァン」
「俺のアリスだ」
そう言うと、レジーが立ち上がる。
「イヴァン。念を押しておくが、アリスは俺を選んだ。俺は譲らない」
ただ、と彼は続ける。
「こんなことで争っている場合じゃない。その決着は後でつけることにしよう」
「レジーは大人、だね」
ヴィオラの突っ込みに、イヴァンは動じず背を向ける。
「どこに行くの?」
「デビルズマウンテンだ」
「その装備で? 一人で? アリスがイヴァンから逃げたのかもしれないのに?」
「地獄の果てまで追いかける」
グレースがヴィオラに首を振る。言っても無駄よ、と無言で示す。こっちでもグレースがいつの間にか合流しているのが謎だけど、この鏡の世界のほうが、今までの彼らだ。
アリスは、一歩下がり、たくさんの起立する鏡を見渡す。まさしく鏡の間。
「まさか、これ。全部、それぞれが違う世界なの?」
魔王が背後に立ち、アリスの両肩に手を置く。
「さて。どこに帰る?」
凄みのある声は、先ほどまでの甘く誘惑に満ちたものとは違う。彼の本性の片鱗が見えた気もする。
いまここが大きな分岐点? わからない、これまでも相当な苦労をしてきたけど、流されてきたような気もするしな。
魔王を断った、それが大きな選択肢だった気もする。
他の鏡を見て、もっと選びたい、けど。際限がなさそう。アリスはいくつかの鏡を見た後、一つの鏡の前に立つ。
「――それでいいのか、聖女よ」
アリスは頷いて、そこを見つめる。
乙女ゲームは正解ルートがある、バッドエンドルートもある。でも、どれを選べば正解なのかはその時点でわからない。人生もそうだ、後でその道を選ばなければよかった、と思っても正解ルートへ戻ることができないことの方が多い。
「――グラディウス」
アリスは、背後の魔王の名を呼んだ。
「今ここに、他の聖女はいない?」
「――君だけ」
「そう」
ふと足もとに何かの感触が触れてアリスは、びくりと驚いて体を揺らした。見れば猫が胴体をアリスの足に擦り付けている。
グレーの体毛のハチワレだ。それが、先に鏡の中へと足を踏み入れ、頭がなくなり体だけを残した状態になる。
まるでついて来いとでもいうみたい。ていうか、アンタ半分だけだよ。
アリスも同じように、鏡面に手を当てると抵抗なく入っていく。とぷんと水の中に入れたような感触だ。少し冷たいけれど、抵抗はない。
「魔王さま。――またね」
「聖女アリス。――また」
振り返らない。投げかけられた別れ、そして再会の挨拶を背にアリスは通り抜けた。




