9.仕舞いには、あの話を
櫻木は「いや、すみません」と慌て出した。光莉と片桐が訝しげな表情になったのが横目に見えたのだろう。
「これといって深い意味はないのですが、ご家族で警察関係者がいたりすると、人より詳しかったりするので。ドラマとか見てると。ええ」
懇切丁寧なまでに、美波は答える。「い、いえ。す、推理小説が好きで読んでいただけです」
「あぁ……そうなんですね」
何故そんな質問をしたのか、光莉は傍らで少し訝しげに眉をひそめた。
「刑事さん、一ついいですか」
怪しげな会話を終わらせるべく、光莉は話題を変えた。正確には、ずっと聞きたかったことを前倒しで尋ねる。
「そういえば、あの時、何を言おうとしてたんですか」
「え?」
「ほら、ここに前来てた時、櫻木さんが一人だった時に、話してたアタシたち三人に、あのっ、て、声をかけてきたじゃないですか」
ハッとした表情で櫻木は虚空を見た。「あっ、いや……そうでしたっけ?」
「そういや、そうだな」片桐が追随する。
「も、申し訳ないです」櫻木は恥ずかしそうに頭をかきながら、「ちょっと覚えてなくて」と言う。
光莉は確信していた。嘘だ、忘れたフリだ。あの感じは多分、覚えている。なぜ呼んだのか。
だが、櫻木が「多分忘れちゃうぐらいですから大したことないと思います。なので、もう、はい」と続けた。
あからさまなはぐらか方なのだが、打ち切れてしまった以上、ここで変に波風立てるのは得策でもないし、最善でもない。
光莉は「あっそうですか」と静かに引き下がった。
櫻木は壁にある時計をちらりと一瞥すると、スーツの襟を正した。
「改めまして」櫻木は片桐のほうへ身体を向ける。「今回はあらぬ疑いをかけてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「もういいよ、こうやって誠意見せてくれたんだから」
片桐は人差し指で、ケーキボックスをトントンと叩いた。
「あっそうだ」
櫻木がポケットから取り出したのは名刺。美波、光莉、片桐の三人それぞれに渡す。それぞれは受け取る。
「もしこれから何かありましたら、遠慮なくお電話いただければと思います」
名前と階級、住所に郵便番号、代表番号と携帯番号、今時珍しいFAX番号まで記載されている。
「今後ともご協力のほど、よろしくお願いします」
「今後とも、って」片桐は少し不安そうに眉間に皺を寄せていた。「また何かあったら持ち込んで、彼女の知恵を拝借、なんてことじゃない……ですよね?」
「も、勿論。そういう意味じゃございません。市民生活の安全を守るための協力、それこそ不審者がいたとかそういう場合に通報をいただければ、という意味のことです。ええ、はい」
図星のようにどこか慌てているような気がするのは気のせいだろうか、と光莉は思う。
「そういうことなら、まあ、ご協力しますよ。市民の義務ですからね」
「宜しくお願いします。では、自分はここらでそろそろ」
櫻木は一礼し、店を出ようと自動ドアへ。
自動ドアが開いた時、美波は立ち上がりながら、「あの」と声をかけた。櫻木は振り返る。
「さ、最後に、等々力さんへ、ご、御伝言をお願いしたいのですが」
「あっ、はい」身体の向きを変える櫻木。予想外だったのか、少し戸惑った表情をしていた。「何でしょうか」
一度顔を俯き、軽く咳払いをする美波。目の色が変わる。
「本職の刑事さんから見たら、警察官でもない私がしていたことは、素人のごっこ遊びだったと思います。それに異論はございません。捜査の妨害をしていたことも確かです。お邪魔となってしまい、申し訳ありませんでした」
美波は深く頭を下げた。
櫻木は「いや」と何か続けようとする。だが遮るように、「ですが」と顔を上げた。その表情から伝わってくるのは、意を決した者の覚悟であった。
「片桐さんの無実を証明するために、私たちは必死でした。それは決して、遊びでもごっこでもなく、刑事さんたちと同じ気持ちで、同じ熱量で、真剣に事件に取り組んでいました。解決しようとしていました。決してふざけてなどいませんでした。それだけは、確かです」
美波は突然ハッとして、また遠慮がちになり、「そ、そう、お伝え、い、頂けますか」と発した。
櫻木は「……承りました」と返すと、軽く会釈する。ランドリーから出て、すぐのところでまた振り返り、深く一礼をした。自動ドアは静かに閉まった。
片桐はため息を深くつくと、名刺を眺めた。「これで関わり合いを切れると思ったんだけどねぇ」
「心配しなくても、疑われるようなことしなきゃ大丈夫ですよ」光莉は冗談めいたように笑う。
「そうだねぇ……」何故か片桐は遠い目をする。
「……えっ、なんです? あっ」ハッとした顔になる光莉。「もしかして、疑われるようなことしてるんですか? もうですか、もうしてるんですか?」
「失敬な。してないよ。てかそんなことはいいの。僕が伝えたいのは、感謝だ」
「「え?」」美波と光莉は同時に反応した。
片桐は席を立ち、背筋を伸ばした。
「ミナっちゃん。僕の無実を証明してくれて、本当にありがとう」
そして深く頭を下げた。
「い、いえ、そんな」
「んで、エトっちゃん」目線を変える片桐。
「え、アタシ?」何もしてないのだが、そんな言葉が光莉の脳内には浮かんでいた。
「庇ってくれて、ありがとう」
「え?」
「一番最初、このサンサンランドリーで出会った時のこと覚えてる? 僕のこと悪質なナンパ師と疑って、ミナっちゃん助けるために、警察にしょっぴくぞ!、なんて言ってたぐらい、かなり悪いスタートだったのに、今回は僕の無実を信じて、警察に楯突いてまで助けようとしてくれた。それが、僕は凄く嬉しかったんだ」
照れ笑いを浮かべる光莉。「一応、疑いました時もありますけどね」と、恥ずかしそうに誤魔化す。
「そこはいいんだ。結果的に、信用してくれたってことに間違いはないんだから。そういう信頼関係を築けてるってだけで、十分な進歩さ」
「んじゃあ、そんな信用されていることが確認できたアタシから一つ、訊きたいことがあるんですが」
「へ?」
顔を寄せて、距離を詰める光莉。「何を隠してたんですか?」
「隠してたって何を?」
「目撃された日。被害のあった家の近くにいたあの日ですよ。そもそもの発端は、片桐さんが被害現場近くにいたことからでした。片桐さんもいたことは認めてましたし、なんであの日、居合わせたんですか」
「あー……」はぐらかそうと必死の片桐。
美波は近寄った。逃げられないように、ぐっと。「まあ、今回のお礼ってことで。特別に。ね?」
「分かった。話すよ」そう言って、片桐は、ちょちょ、と手招きをした。美波と光莉はさらに、磁石のように顔を寄せた。「ネコなんだ」
「「ネ、ネコ?」」まさかの答えに驚きを隠せない二人。
「僕、その近くのスーパーに行ってたんだけどね、そこの駐車場にそりゃあもう途轍もなく可愛いネコちゃんがいてさ。身体は小さく、毛並みはふさふさ。瞳はうるうる輝いてて、もう食べちゃいたいくらい可愛らしいんだ。で、その仔、家路に着こうとしていたのか、とぼとぼ歩き出したのね。でも、ちっちゃいから、車とか自転車とか来たら見えにくくて、だからもしかしたらって最悪が頭をよぎったらもう、心配で心配で。だからつい、後をついていっちゃったんだよ。結局は、ある程度のとこまで行ったら、ひょいと慣れた感じでブロック塀登って、民家の庭に入ってっちゃったから、当然そこから先は追えず。仕方なしに帰ったんだ」
その追えなくなってしまったという辺りが、不運にも被害現場の近くだった、ということか……結末を推測した光莉は、ため息をついたのであった。
「しっかしね、あのネコちゃんはただ可愛かっただけじゃない。種類は三毛猫、しかもあれはね、オスじゃないかと思ってるんだ」
「み、三毛猫のオスって、め、珍しいんですよね」美波は続ける。
「まあちゃんとは確認できなかったんだけど、あれは、多分おそらくだけど、オスだったんじゃないかなって、僕は信じてる」
なんとも心許ない確信であった。
「なぁんで、最初っから警察に言わなかったんですか?」
光莉は笑みを見せた。だが、それは引き攣っている。口には、閉じられた前歯がはっきり見える。もはや笑顔ではなく、怒りを噛み殺している表情であった。
光莉の顔つきで全てを察した美波。どうしようどうしよう、と少しおろおろし始める。
「いや、なんか恥ずかしくて言えなかったのよ」片桐は上から払い落とし、弧を描くように、手を大袈裟に振る。「大の大人が、ネコちゃん追ってたなんて。それに言っても、信じてもらえないか、あしらわれるだけ」
光莉は冷静に話す。「大の大人というか、その仕草だけみれば、そっち系に見えますけどね」
「嫌っだぁん、もぉ」
わざとなのか気づいていなかったのか、片桐はまたも大袈裟に手を振り下ろした。
コインランドリーを出て夜道を少し歩いたところで、櫻木の携帯が鳴る。
聞こえてくる着信音から察するに、電話。こういう時の予感というのは当たるもので、相手を確認してみるとやはり、等々力であった。
「はい、櫻木です」
言葉より先に、麺類を啜る音が聞こえてきた。ラーメンでも食べているのだろうか。
『おう』少し遅れてきた等々力の返事には、咀嚼音も混じっていた。『あのお三人さんは、どうだった?』
「とりあえずは一応、許してくれました」
もちゃもちゃと、音を立てて食べている音が聞こえる。うどんかもしれない。
『そうか、謝罪にはあのエクレアが効果てきめんだな。喜んでたか?』
「シュークリームですね、買ったの。ええ、喜んではいました」
『ああそうか。まあどっちでもいいよ。しかしまさか、素人のお嬢ちゃんの推理が的中するとはな』
「ええ。ものの見事に一致してましたからね。本当に犯人がそうだった時は驚きました」
『同じく。んで、聞けたのか?』
「例のですよね。ええ。しかし、家族に警察関係者はいないとの返答でした」
櫻木は、尋ねることを等々力から頼まれていたがそれを帰る間際まで忘れていたことについては、触れないことにした。
『なんだ、両親からの英才教育を受けて、とかじゃなかったってわけか……なら、あの娘、何者だ?』
「単なる一般人、ということですかね」
『そりゃそうはなるだろうけどよ』
「ただですね、英才教育繋がりで申しますと、推理小説を読んだことで推理力が身についたと本人は言っていました」
『小説? はっ、羨ましい限りだ。俺も、暫く本なんざ触れてねぇから、読んでみっかねぇ。まあいいや。ご苦労さん』
「あっ、あとケンさん」櫻木は切られそうになるのを呼び止めた。
『ん?』
「結局、あの片桐さんって男性、分かりました? あのコインランドリーに入る前、自動ドア越しに顔を見た時に、あの顔に見覚えがある、とかケンさん言ってませんでした?」
『ああ。あれな。まあ見覚えがあった気がしたのは確かなんだが、どうも思い出せなくてな。ったく、俺も焼きが回ったもんだよな。嫌だね』
「ははは……では、特にマエは無かったと?」
『多分な。てか、もういいよバスケ。どうせ大したことじゃねえんだ。思い出したら、動きゃいい。とりあえず、忘れていい。それよりも、これから昨日の事件の、捜査会議をやることになったから急いで戻ってこい』
「え、明朝って話じゃ……」
『だから変わったんだよ。いいから、早く来い』
「わ、分かりました。すぐ向かいます」
電話を切るやいなや、駆け出す櫻木。そして、パトカーを停めてあるコインパーキングまで走っていったのであった。




