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イトウ・スチール・カムパニー  作者: あくまでもフィクションです。石を投げないで。
9/9

異世界みたいなアメリカのサード街

 1910年1月26日


 午後四時三十分、冬の短い陽光が西の空に沈みかけ、ロサンゼルスの街影を長く引き延ばしていた。サトウは、愛馬の鼻を鳴らしながら、サード街 (E 3rd St)の北側に面した古びた雑居ビルの前で荷馬車を停めた。


メイン街 (S.Main Ave)へ向かって緩やかに下るこの界隈は、まさに明治時代の文明開花のようだった。


 通りの真ん中を軋ませて走る路面電車の音に、行き交う馬車の鞭の音が混ざり合う。未舗装の道には馬の屎尿が立ち込め、時折、走り抜けていく自動車の排気ガスと、ー夕刻の冷気とが混ざり合っていく。


 その鼻を突くような重苦しい匂いは、マンハッタンからロサンゼルスまでの大都市が共通して(まと)う、野蛮なほど魅力的な『文明の体臭』だった。



「……えらく変わっちまったな」


 サトウは、レンガ造り三階建てのビルに目を細めた。


 かつては黒人居住区の中心だった場所だが、仕事を終えた一世や二世たちが闊歩して、聞き慣れた故郷の言葉が漏れ聞こえてくる。


 一階に並ぶ五つの貸店舗のうち、左側二つは日本人の経営する「飯屋」と「アイロンがけ専門のプレス専門取次店」だ。今年中に退去予定らしい黒人経営の新聞販売店だけが、どこか場違いのようにも思える。


 だが、その右隣に続く、イチタロウが借り上げた二店舗分のスペースは、異様な静謐を纏っていた。


 まず目を引くのは、その「門構え」だ。


 左端の飯屋が古びた木の扉一枚なのに対し、ここには宝石店や銀行でしか見かけないような、頑強な伸縮式鉄製ゲート (ボストウィック・ゲート)が備え付けられていた。


 夕闇に鈍い光を放つその鉄の格子は、ここが尋常な場所ではないことを物語っている。


 それぞれの店舗の間にはビルを支えているレンガの柱が四本ある。イチタロウの倉庫兼工場は、シャッターは上げたまま、四本目の柱と東側の壁に向かって閉じるアコーディオン式金網 (ボストウィック・ゲート)で、両店舗とも塞がれていた。



 サトウは荷台から降りると、今日から雇い入れたと聞いていた警備員の姿を探し、四本目のレンガ柱に向かった。


 ゲートの奥、元は壁であったろう約八フィート (二.四メートル)の地点。


 十インチ角 (約二十五センチ)の逞しいダグラスファー (米松)の角柱が、広々とした空間で天井を支えていた。その影に、サトウは目を疑うものを見た。


「……おいおいおいおい。なんだ、ありゃあ」


 角柱の向こうに、幽霊のように白く輝く「自動車」が横向きに停められていたのだ。


 安全対策で車を買うと聞いていたサトウだが、その色に目を見張った。


 当時、道を走る自動車といえば、T型フォードに代表される黒か暗色が当たり前だった。それなのに、そこに鎮座しているのは、薄暗い倉庫内でもぼうっと白く、真鍮のラジエーターやライトはかそけき光を集めていた。



 顎が落ちかけたサトウは首を振りながら、五店舗目の左端に当たる、新たに設けられた小さな守衛室へと歩み寄る。そして、煉瓦造り六 × 七フィート (約一.八 × 二メートル)にある横向きの細い窓に声をかけた。


「すみません。イチタロウは……イトウさんはいますか?」


 四本目の柱から暗い穴を覗き込むようにしたサトウの背後で、また一台、路面電車が激しい火花を散らしながら通り過ぎていった。




「イチ! この大馬鹿野郎! 心の臓が止まるかと思ったじゃねえか!」


 『白い稲妻』と称されるビュイック・モデル10・ツーリングの前で、イチタロウは困惑した表情を浮かべていた。


「サトウさん……今日から警備員が入ることは、事前にお伝えしていたはずですが」


 血相を変えて捲し立てるサトウの剣幕に、イチタロウはふと考えていた。最後にこの男から、「イチ」という名で呼ばれたのは、一体いつのことだったか。


 こんなに人に叱られたことも、遠い遠い昔のことのようだった。


「警備員が入るとは聞いていたが、あんな物騒な連中だとは聞いちゃいねえ! あれじゃあ、まるでスト破りのピンカートンじゃねえか!」


「彼らはピンカートンではありません。彼らは――」


「四の五の言うんじゃねえ! 御託はいいんだよ!」



 サトウの肩越し、守衛室の前では大柄な白人警備員の一人が、困り果てたように肩を竦めていた。もう一人は守衛室の細い窓から差し込む光の中に、その硬質な背中を預けている。


 さらに私服の白人護衛が、四店舗目の間口に設けられた搬入用両開き扉の前に佇んでいた。路面電車の音に混じって響くサトウの怒鳴り声に、通りがかりの移民たちが、何事かと首を伸ばして中を覗き込んでいく。


 警備員が纏うのは、銀の記章を冠したネイビーブルーの制帽と、厚手のウール製コート。肩には厳格なエポレット (肩章)が据えられ、立て襟には真鍮のボタンが鈍く光を反射する。左胸の銀色のバッジも夕闇に浮かび、その腰には長い警棒と拳銃が革のホルスターに収められていた。


 その肩からは、半自動式ライフルのウィンチェスターM1907が物々しく掛けられていた。



 サトウの世代にとって、この制服姿は「安全」の象徴などではなかった。それは、資本家が労働者を力でねじ伏せるための、呪われた「傭兵」の記号だ。


 ――1892年、ホームステッドの惨劇。


 サトウの脳裏には、かつて全米を震撼させたカーネギー鉄鋼での銃撃戦が、忌まわしい記憶として焼き付いている。慈悲深い慈善家を気取っていたアンドリュー・カーネギーが、その裏で工場長フリックに命じ、三百人ものピンカートン武装警備員を労働者へ差し向けた事件。


 平和を説き、各地に図書館を建てながら、自分の足元では銃弾で組合を潰す。あの二重基準 (ダブルスタンダード)こそが、全米で最も嫌われた男、カーネギーの正体だった。



 イチゴ畑を二足三文で売り飛ばしてからのイチタロウは、まるで何かに急かされるように、湯水のごとく金を使っていた。


 サトウには、作蔵とキヨが生涯をかけて土に染み込ませた血と汗が、得体の知れない『事業』という魔物に食いつぶされていく断末魔の音に聞こえていた。


 改装費に四百五十ドル、電話二社の開通に七ドル……。挙句、毎月の維持費だけで七十ドルを超えるという。サトウから見れば、それは狂気の沙汰だった。


 サトウが最も戦慄したのは、その先に続く「持ち出し」の計算だった。家賃や電話代、そしてあの改良型アーストイレの回収費まで含めれば、一歩も動かずとも毎月七十ドル以上が消えていく。


 サトウが今日、ここを訪ねたのは、二十四日のアレクサンドリア・ホテルでの会談結果を、親代わりのような心持ちで聞きに来ただけだった。


 だが、目の前の白い自動車と、威圧的に立ちふさがる武装警備員の姿に、積み重なっていた不安と憤りが限界を超えて弾けたのだ。


「サトウさん……。少し落ち着いてください」


 イチタロウの困りきった声が、夕暮れの倉庫前に静かに響いた。




「……すまねえな、イチタロウ。ついかっとなっちまってよ」


 サトウがしょげた声で頭を下げた。


「いいんですよ、サトウさん。こっちこそ、心配をかけてしまったようで申し訳ありませんでした」


 イチタロウも、サトウより深く頭を下げた。


 護衛の人影は、天井の明かりの消えた部屋で、中央にある作業台の椅子に腰掛けている。


 北側の二つの窓には、内側に取り付けられた九本の鉄格子の影に、電灯の黄色い光が微かに映っていた。


 細長い貸店舗 (ショットガン・スタイル)は、奥が暗く空気が淀みやすいため、天窓 (スカイライト)や、建物の間に設けられた「空気井戸 (Air shaft)」に面した窓の設置厳格に定められていた。



 仄暗い倉庫兼工場には、東と南の角に四人がけの応接セットと、二つの事務用机が向かい合わせに置いてある。その間に置かれている、天井の電気照明から分配している電気スタンドだけが、鮮烈なタングステンの光を放っていた。


 壁際の長椅子に座っているサトウの側には、ダイヤルのある電話機とない電話機の両方が、壁にかけられている。


 その頃のロサンゼルスには、互換性のない二つの電話会社が競合しており、異なる会社間での通話は不可能だった。


 ダイヤルのない方がベル系のパシフィック・テレフォンで、受話器を取ると「Number,Please?」と白人の交換手 (オペレーター)が応答する手動式。交換手と昔馴染みのようになるのは、白人の社交の一つのような歴史があった。


 ダイヤルのある方は、世界最先端の「自動交換機 (ストロジャー式)」を採用。英語が不自由な移民一世でも、交換手と話すストレスなく番号操作だけで直接相手に繋がり、プライバシーの確保からも、日系移民 (一世)や黒人コミュニティの間では、熱狂的に支持されていた。


 人種や民族特有の発音でも、不適切な対応をされることが多かったからだ。



「……それで、一昨日の商談はうまくいったのか?」サトウが尋ねた。


「ええ。……全部がサトウさんに言った通り、という訳ではありませんでしたが。うまくいったと思います」


 イチタロウに指すスタンドの黄色い光は、少しの凹凸でもその影を濃くしていた。そんなイチタロウをじっと見つめて、「そうか」とサトウは呟いた。


 イチタロウがここの二店舗を借り、壁を壊して一つにする工事を始めた時も、若い娘を七人も雇用して、2月1日の会社開きまでの二、三週間の訓練をしていることも、リトル東京では話題になった。それでも、アレクサンドリア・ホテルの一室を借り切っての会談ほどではなかった。


 日系人社会に馴染みのある、グリーンウッド弁護士の同伴がなければ、サトウも半信半疑だったかもそれない。


「で、結局のところ、あの包丁には幾らの値がついたんだ?」


  重苦しい空気を振り払うように、サトウが努めて明るい声を出した。職人としても、あの一体型包丁にどういう値付けがされたのか気になっていたからだ。


「商品と値段が載っているカタログを五種類、後で送りますよ」


 サトウの心遣いに応じるように、イチタロウもそれに調子を合わせた。


「はは、買いもしねえカタログなんか五冊ももらってどうすんだよ。……まあいい、お前が食いっぱぐれねえならそれでいいさ」


 サトウが膝を叩いて笑うと、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。それからは、和やかにここ三日ばかりの近況報告が始まった。


 サトウは馬の蹄鉄を打ち替えた話をし、イチタロウはアレクサンドリア・ホテルの100万ドルのカーペットについて話した。


 かつてイチゴ畑の縁で交わしていたような、他愛のない、しかし決定的に「世界」がズレ始めた二人の会話が、煌々(こうこう)としたタングステン電球の光と影の下で続いた。



 



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