第89話
「燈香」
華奢な人影が足を止めておもむろに振り向く。
コートにパンツ。着物じゃない分魚見と比べて華やかさに欠ける。
それでも予想通りの顔立ちを前に口角が浮き上がった。
「あけましておめでとう。来てたんだな」
「うん。暇だから来ちゃった」
「言ってくれれば待ち合わせしたのに。近くに丸田と魚見がいるんだ。一緒に回らないか?」
「ごめんね。今はわいわいする気分じゃないの」
言葉に詰まった。
燈香は俺たちと一緒に回る。そう思い込んでいたからあっけにとられた。
「そ、そうか。ごめん邪魔して」
細い首がかぶりを振る。
「むしろちょうどよかったかも。少しでいいから付き合ってくれないかな?」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとう」
華奢な体が身をひるがえす。
内心ほっとして足を前に出した。
「今日は寒いな」
「だね。気温マイナスみたいだし」
「降らなくてよかったな」
「ね」
会話が続かない。靴音がやたらと大きく聞こえる。
いつ「じゃあまた登校日」が飛び出してくるか分からない。頑張って脳みその底から話題を引っ張り出そうと試みる。
燈香と二人きりの時にここまで頭を使ったのはいつぶりだろう。
そうだ、一年生の頃、燈香のグループと絡み始めた当初がこんな感じだった。
近づきたいけど嫌われたくなくて、言葉を発する前に本当にこれでいいのかと頭の中で吟味した。それが原因でぎこちなくなったこともある。
あの時は丸田や魚見がフォローしてくれた。片桐も多少は助けてくれた、気がする。
この場に丸田や魚見はいない。
一人で切り抜けなきゃいけない。周りを視線で薙いで会話のネタを得た。
「焼きそばの屋台があるな。一緒に食べないか?」
口にしてハッとする。
燈香は大会を控えている。うちの女子バレー部は、体重を測って間食してないか調べるなんてうわさもある。
焼きそばは炭水化物のかたまりだ。屋台の焼きそばに含まれる肉や野菜なんてたかが知れる。
燈香も我慢してるだろうに、そんなジャンクフードを勧めるのはデリカシーに欠けていた。反省だ。
「食べようかな」
別の意味で目を見開く。
燈香の背中が遠ざかる。それが他者の背中に隠れて、慌てて靴裏を浮かせた。
燈香と焼きそばを購入してベンチに腰掛ける。
「焼きそば買っちゃったけど良かったのか?」
「何が?」
「何がって、炭水化物のかたまりだろそれ」
スポーツは数グラム太るだけでパフォーマンスが落ちると聞く。
大会まであと一週間もない。外を走って体を絞ろうにも、まだ地面に白さの残る季節では怪我をするリスクもある。
俺なんかよりも分かってるだろうに、燈香は口角を上げてプラスチックの蓋を開けた。
「いいよ別に」
軽快な音に遅れて割りばしが二つに分かたれた。先端が褐色の麺を挟んで燈香の口元に運ぶ。
褐色の麺が口の中に消えた。頬のもごもごに続いて桃色の口角が上がる。
「久しぶりに食べると美味しいね。温かいからなお美味しい」
「冷めてる焼きそばなんていつ食べたんだ?」
「子供の時かな、残り一個だったからやったと思って購入したら冷めてたんだよね。美味しかったけど」
そう告げて二口目を頬張る燈香は、純粋にB級グルメを楽しんでいるように見える。
ひざを悪くしていた頃はともかく、バレーに励んでいた一年生の燈香は食事にも気を使っていた。夏祭の時も肉や野菜を中心に食べていたくらいだ。
「バレー部で何かあったのか?」
問いかけが口を突いた。
燈香が困ったように唸って食事の手を止める。
「私、レギュラーから外れちゃったんだよね」
思わず目を見開く。
秋村燈香と言えばちょっとした有名人だ。中学校の大会では優勝したし、高校でもひざを悪くするまでは次期エースと名高かった。
ひざが癒えるまでにも他のプレイヤーは研鑽を積む。復帰後は多少つらいとは思っていたけど、燈香ならすぐレギュラーに返り咲くと気楽に考えていた。
まさかレギュラーから外れるなんて、そんなことは考えもしなかった。
「そうか」
一瞬の間に思考をめぐらせて、ただそれだけを口にした。
大会に出場しない身で食事制限を守る意味はない。
燈香は俺たちが初詣に行くことを知っていた。アプリ越しに一緒に行きたいと連絡することもできた。
でも燈香は一人で神社を訪れた。俺たちに知られたくないほどショックな出来事だったに違いない。生半可ななぐさめは燈香を傷つけるだけだ。
俺も箸を進めて、焼きそばのもちもちした食感を堪能する。
当たり障りのないグルメ談義を経て燈香がベンチから腰を浮かせた。
「そろそろ帰るよ」
「本当に帰るのか。今日を逃したら来年だぞ?」
「惜しいとは思うよ。でも食べ歩く気分じゃないからさ」
「分かった。丸田と魚見には今日来たことを伝えないでおくよ」
「そうしてくれると嬉しいな。じゃあまた学校で」
「ああ。また学校で」
燈香が微笑を残して背を向ける。
みんなと食べ歩いてパーッと気分転換しないか?
元気づけるために考えた言葉は結局口にできなかった。




