第87話
私は部室でユニフォームにそでを通した。髪を頭の後ろで結ってバレーシューズに足を差し入れる。
アームスリーブに腕を通して深く空気を吸い込んだ。おびえを息に乗せて吐き出し、ドアノブに腕を伸ばして握力を込める。
部室を後にして肌寒い空気を突っ切った。体育館内に続く扉を開いて内部の光景を視界に収める。
広々とした空間はがらんとしている。
負傷するまでは人気のない体育館で調練に励んだものだ。あの頃は寂しさなんてみじんも感じなかったのに、今は私一人取り残されたみたいで強烈な寂寥感に駆られる。
足を前に出して体育館に踏み入った。倉庫のドアを解錠してほこり臭さに包まれる。
ホイールをガタガタ言わせてボールかごを引っ張り出し、持ち上げたボールを床に叩きつける。
アップはもう済ませてある。ボールを相手に一人練習に臨む。
トス、レシーブ、普通のサーブ。
ジャンプサーブまで一通りやったところで、左右に分かれる扉が一人の女子をのぞかせる。
片桐凛子。一年生の頃のクラスメイトが微かに顔をしかめる。
「来てたんだ」
「うん。試合してもらう身だから準備しておこうと思って」
レギュラーはまだ確定していない。私が顧問や部活仲間に頭を下げて保留にしてもらった。
今日の試合でレギュラーかベンチを温める係になるかが決まる。否応なしにボールを握る手に力がこもる。
「殊勝な心がけね」
重々しい扉が体育館内と外を隔てた。大きめな音が閉め切られた監獄の扉を想起させる。
凛子と協力して支柱を体育館の床に立てる。
二本目を持ち出すべく倉庫に戻る。
「ねえ」
「ん?」
「秋村はどうして今日試合しようと思ったの?」
「どうしてって、納得がいかないからだよ。みんなに迷惑はかけちゃうけどさ」
「自覚はあるんだ」
「そりゃあるよ。練習頑張ってるのはみんな同じだもん。私がレギュラーになったら誰かがベンチに下がることになるし」
「ふーん。本気でレギュラー狙いに来てるんだ」
「うん。私が休んでる間に頑張ってたみんなには悪いけどね」
「嘘でしょ」
「え?」
思わず支柱から視線を外した。
無表情な顔が淡々と言葉を連ねる。
「本当に本気なら、秋村がここにいるはずない」
「それってどういう意味?」
「さあ」
むっとする。
今は支柱を運んでいる。喧嘩になって足の上に落としたら目も当てられない。
微笑に努めて口を開いた。
「昔みたいに燈香でいいよ」
「今はやめとくよ」
「……そっか」
二人でネットを広げて体育館を飾る。
他のメンバーもぞろぞろと体育館に到着した。各自アップを済ませて練習に励む。
最後にやってきた女性の号令で整列した。
男性顔負けのハキハキとした指導員。みんなは畏怖を込めて教官と呼んでいる。
点呼を終えた教官が紙を取り出して声を張り上げる。
読み上げられたのは名前。一人ずつ前に出て二つのチームが形成される。
私の名も呼ばれた。元気よく返事をしてチームメイトと肩を並べる。
「秋村、お前だから時間を取った。失望させてくれるなよ」
「はい!」
声を張り上げてコート内に踏み入った。仲間に軽くあいさつをしてコートの外に出る。
私はウィングスパイカーだけど、ひざを故障する前はジャンプサーブで点をもぎ取ることも得意としていた。リベロを務める田中先輩以外でまともにレシーブできる人はいなかったくらいだ。
私の価値を示すにはこれ以上ない要素。呼吸を整えてボールを放った。助走の慣性を乗せて腕を振り抜く。
いい感触。音も軌道も完璧だ。
ボールが向かう先にあるのは、先程険悪な雰囲気になりかけた同学年の顔。
私怨じゃない。
凛子はレシーブを苦手としていた。狙うなら凛子一択だ。
先制点いただき!
そう思った次の瞬間にはボールが浮き上がっていた。
セッターの打ち上げを経てボールが再度山を描いた。スパイカーが床を蹴って腕を振りかぶる。
流れるようなスパイクが私たちのコートの床を打ち鳴らした。
「どんまい。あれ取られちゃ仕方ないよ」
励ましの言葉が耳から耳へと抜ける。
微かに残っていた闘志の炎が、一気に揺らいで弱まっていく。
そこから先は散々だった。レシーブを失敗して連続得点を許し、つまらないミスを連発した。
相手チームのマッチポイント。
サーバーは凛子。しなやかな腕から打たれたボールが山を描いてネットを越える。
レシーバーがボールを上げた。
最後のアピールポイント。ネットの前まで走ってセッターからのトスに備える。
来た。
床を蹴って背筋を反らした。ブロッカーの位置を視野に収めつつ右腕をムチのごとくしならせる。
打撃音に続く打撃音。床を跳ねたボールがてんてんてんと転がる。
試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
凛子が冷やかな視線を送る。
「気は済んだ?」
「……うん」
返す言葉もなく、その二文字だけを告げた。




