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倦怠期カップルは思い出す  作者: 原滝飛沫
3章

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第32話 逃げるなあああああああああああああああああああっ!


 玄関のドアを開け閉めして澄んだ空気に体をさらす。


 土曜日の早朝。人の気配は少ない。一人空気を突っ切って靴音で静寂をかき乱す。


 自然と口角が浮き上がる。この辺り一帯を独占しているみたいで気分がいい。早朝のランニングなんて普段は布団のぬくもりに負けてやらないけど、たまには負けん気を出してみるのもいいものだ。


 気分に任せて通学路を外れた。新鮮な道に靴裏をつけて視界も新鮮さで満たす。

 

「おーい」


 声につられて視線を向ける。


 知り合いの整った顔立ちを視認して。足を止めた。


「魚見じゃないか」


 どうしてここに? 告げかけて魚見の装いに気付く。


 モデルのような肢体はジョギングウェアに包まれている。薄紫のパーカーに黒いハープパンツ。校舎では惜しげもなくさらされている美脚は長いストッキングに隠れている。


 一目で分かった。


「ガチだな」

「毎日走ってるからねー。ところで脚見たでしょ?」

「さあージョギングの続きしないとなー」


 視線を正面に戻して靴裏を浮かせた。


「あ、こら無視するなーっ!」


 後方から靴音が迫る。程なくして視界の隅に薄紫が映った。


「まだおはようを聞いてないぞー」

「おはよう」

「はいおはよう。よくできました」

「子供かよ」

「子供でしょ私たち」


 確かに。納得してしまったのが少し悔しい。


「萩原はジョギング?」

「ああ。さっき言わなかったっけ?」

「言ったけど、正直冗談だと思ってたよ。萩原って早朝に走るタイプだったっけ?」

「いいや? 布団の中で猫のごとく丸くなるタイプだ」

「布団気持ちいいよねー。気温下がってからは私も温もりが恋しいよ」

「何か発言セクシーだな」

「何想像したの? えっち」


 意地悪気に笑まれた。


 魚見がこういう女子なのは知っている。俺は無表情に努めて手足を動かす。


「魚見は朝どうやって布団から出るんだ?」

「勉強机の上にアラームかけたスマートフォン置いてる。たまにアラーム止めてから布団にくるまっちゃうけど」

「そういう時は二度寝するのか?」

「二度ねー、ジョギング当初はよくやったよ。起きた時に後悔すんのね」

「すっごい身に覚えあるな」


 体温の残ったベッドの誘惑は抗いがたい。一度布団の中から抜け出ることに成功しても、視界に映した瞬間に足が進む。


 布団の中には魔物が住んでいる。俺は確信したものだ。


「二度寝するかどうかの答えだけど、今はしないよ。布団に飲み込まれちゃった時はベッドの上で腕立て腹筋背筋してる」

「それ意味あるのか?」

「あるよーめっちゃある。運動すると汗かくでしょ? 早く出ないとシーツと布団が汚れちゃうって強迫観念に身を委ねるの。マッチョになっちゃうって焦燥感のおまけつき」」

「地味にやだなそれ」


 ジョギングするのにそこまでの努力が必要だとは。ジョギングとは思いのほか奥深い。


 公園に寄って行こうと提案されてルートを変える。視界の左隅に憩いの場が映って緑色に視線を引かれる。


「遅れて公園に入った方は飲み物をおごりね」

「え?」


 急に魚見が飛び出した。


「あ、おい!」

 

 慌てて手足を振る。


 華奢な背中がどんどん遠ざかる。すらっとした足が土の地面を踏みしめて。突発的な徒競走は幕を閉じた。


「はぁ、はぁ、ずるい、ぞ」

「勝負の世界は非常なのだ」


 魚見がニッと白い歯を覗かせる。美貌の使い方を心得ている。


「ずいぶん早いじゃないか。陸上部でもないくせに」

「放課後活動ならやってるよ」

「そうなのか? 初耳だな。いつも放課後になったら教室から消えるだろ」

「なによー人を薄情みたいに」

「薄情ではないけどベタベタするタイプでもないよな。用がなければ俺たちの前でもためらいなく帰るじゃないか」


 俺たちを見かけると積極的に話しかけてくるくせに、いっそ清々しいほど飄々《ひょうひょう》としている。人懐っこさとミステリアスさを両立させた魔性の少女。それが俺の知る魚見華耶という少女だ。


「私ってそんな幽霊みたいなキャラだったっけ。知らなかったなぁ」

「幽霊じゃなくて悪女だな。いい加減自覚しないと勘違いされて襲われるぞ?」

「はーい」


 陽気な返事が続いた。


 まあ地頭のいい魚見のことだ。俺が言うまでもなく上手くやっているのだろう。


 立ち話する趣味はない。ベンチに腰を下ろして、全力疾走でへとへとになった足を休める。


「なあ、どうしてそんなに帰宅部であることを恥じるんだ?」

「どしたの急に。自虐?」

「だってかたくなに違うって言うから、てっきりコンプレックスでもあるのかと」

「あれ、言ってなかったっけ。私劇団に属してるんだよ」

「劇団って、魚見演劇やってたのか?」

「そ。小学生の私素直でさー、学芸会での褒め言葉をそのまま受け取って挑戦したの」

「行動力の化身だな」


 俺が小学生の時は何をしていただろう。友達とばかやって外を走っていた気がする。


 魚見はきっかけに恵まれて演劇の道に挑んだ。俺の時間が無駄だったとは思わないけど、一身に打ち込めるものに出会えたのはちょっと羨ましい。


「もしかして朝のジョギングも演劇のためか?」

「うん。演劇ってただ演じるだけでも体力使うんだよ。ライトあっついし、日ごろから意識しないと体がついていかないの」

「そこまで本気だったのか、知らなかったよ。じゃあこんな所で油売ってる場合じゃないな。ジョギングの続きをしよう」


 ベンチから腰を上げて靴先を出口に向ける。


「こら、飲み物おごれ」


 俺は靴裏を浮かせて手足を振り回す。


 逃げるなあああああああああああああああああああっ! 


 張り上げられた声の主に捕まるまで、後方から迫りくる靴音とデスチェイスした。




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