第101話 バレー部に戻れ
俺は母に頼まれたものを購入して通学路をたどった。自宅の照明を一身に浴びて、熱された湯のつぶてを浴びて体を清める。
いつもより熱いシャワー。微かな痛みがあるくらいなのに、浮谷の言葉が頭から離れない。
俺はずっと正しいか間違っているかで判断してきた。
部活動で優勝するよりも、将来安定した職に就くために問題集と向き合った方が賢い。多くの教員や親に問えばみんな俺の意見を支持するに決まってる。
何故なら理屈が通っているから。
正論はそういうものだ。俺も自分の考えを正しいと信じて疑わなかった。
だからこそ浮谷さんの言葉は青天の霹靂だった。
部活で優勝した上に志望した大学にも受かる。険しい道だけどこれが最善なのは明白だ。
でもその道はどうしようもなく間違っている。
ただでさえ燈香はひざを故障していたんだ。ブランクを取り返すには相当追い込まないといけないし、またひざを壊すリスクも高まる。もし二度目の故障で失意のまま引退なんてことになったら受験に響く。
だけど可能性はある。限りなく細い線でも起こり得る未来だ。
俺は目が曇っていたのかもしれない。どうしようもなく間違えた連中をスキー合宿で目の当たりにしたせいか、無意識に正しさに執着していた。
物事には正しいも間違いもない。正誤の判断は全てどこかの誰かが決めるものだ。一見非合理でも振り返ると最善だった、なんて事例は世の中にいくらでもある。
結局は燈香がどうしたいかに集約される。
本当はどうしたいんだろう。燈香は退部届を提出したけど、前もって俺に辞めると告げる必要はなかった。
あれは俺に背中を押させるための一手だったんじゃないのか。自分だけじゃ決められないから、俺を使って無理やり自分を納得させたんじゃないのか。
燈香の本心を確かめないと。
俺は決意して休日明けの玄関を後にした。つんざくような外気を突っ切って学び舎の門をくぐる。
教室に踏み入って談笑していると、女子バレーボール部の顛末が耳に入った。
大会は惜しくもベスト4だったらしい。観戦しに行った連中いわく、相手チームの防御を突破できずに攻めあぐねたようだ。そっと横目を振ると、燈香は耳をふさぐようにうつむいていた。
授業を経てお昼休み。
さらに午後の授業を経て放課後を迎えた。俺は先日のように燈香と図書室へおもむく。
この日もノートと問題集をにらめっこして下校時刻を迎えた。図書室を出て下りの階段に足をかける。
「解けなかった問題が解けると気持ちいいねーっ」
燈香が無防備に背筋を反らした。蠱惑的なおうとつが強調されて、俺はさりげなく視線を逸らす。
「難問が解けると救われた気分になるよな」
「そうだね。さすがに救われたは大げさな気もするけど、そう言いたくなる気持ちは分かるかも」
昇降口へ向かう途中で小体育館の入り口前に差し掛かった。
栗色の瞳がずれて重々しい扉を捉える。
「気になるか?」
すらっとした脚が止まる。
おもむろにかぶりが振られた。
「もう私とは関係ないもの」
だったらどうしてそんな寂しげに笑うんだ。未練があるって言ってるようなものじゃないか。
燈香が歩みを再開した。
俺は指をぎゅっと丸める。
燈香は自分の気持ちを抑え込んで現実的な選択をした。そこには相当な葛藤があったはずだ。部活に熱中したことのない俺が口を出していいのか。
……知るか!
「え」
戸惑いの声に遅れて燈香が振り向く。
「敦?」
栗色の視線が自身の手首に落ちる。
不可解だろう。急に手首をつかまれたら誰だって驚く。
説明なんかしてやらない。俺は左腕で重々しい扉を勢いよく開け放った。
「ちょっ、敦!」
張り上げられた声を無視して細い手首をぐいっと引っ張る。二人で体育館の床を踏み鳴らして中央を目指す。
小体育館はがらんとしている。
下校時刻だけあって部員はいない。いつもボールが床を打っているイメージがあるから、秋風がヒューッと通り過ぎたような寂寥感がある。
指からバッとやわらかな感触が抜けた。
「敦、どういうつもり?」
振り向くと燈香が眉間にしわをよせていた。
「ここに入りたそうな顔してただろ」
「そんな顔してない。勝手なことしないで」
「そう怒るなよ。部活はもう終わってるじゃないか」
燈香が背中を向ける。
「早く出るよ」
「いいじゃないか。他に誰もいないんだから」
「先生が施錠しに来るって。もう下校時刻なんだから」
「そうだな。だから早めに終わらせよう」
「終わらせるって何を?」
俺は深く空気を吸い込む。
廊下では俺たち以外の靴音は聞こえなかった。下校時刻だし他の生徒に聞かれるリスクは抑えられている。
俺は意を決して口を開いた。
「燈香、バレーボール部に戻れ」
下手すれば大喧嘩になるかもしれない。
分かった上で、そう告げた。




