第20話「ミクと早朝」
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海鳥が朝の訪れを告げる。
早朝のヴィクトリアは涼しいというより、寒いといったほうが的確だ。じっとしていたら、たちまち体温を奪われてしまう。
太陽はまだ昇っていない。
薄暗いサンマルコ広場には人影はなく、あれだけ騒がしかった祭りが嘘のように静まり返っている。
「はっ、はっ、はっ…」
軽快な足音だけが響き、少しだけ荒くなったあたしの呼吸が耳を打つ。わずかに汗ばんだ体に、早朝の爽やかな風が心地いい。
「やぁ、今日も早いですね」
壮年の男性とすれ違う。
あたしと同じ、早朝のランニングを日課としている人だ。
名前は知らない。
何度かすれ違っているうちに、お互いの顔を覚えてしまっていた。
「まぁ、癖みたいなものなんだけどね」
あたしはそう言って、真っ赤な前髪をかき分ける。
会話はそれだけ。
そのまま、あたしもその人も、何事もなかったかのように去っていく。それが暗黙のルールであるかのように。
でも、その距離感が心地いい。
「はっ、はっ、はっ、…よっと」
サンマルコ広場を駆け抜け、細い街の路地に入っていく。いつもは、通行人の肩がぶつかりそうなほど狭い道も、今だけは軽快に走ることができる。
路地を抜けると、幅の広い河が見えてくる。この国のメインストリートである、『大運河』だ。
しばらく大運河沿いに走り、見えてきた大理石の橋を渡っていく。街の路地よりも道幅のあるリアルト橋には、この国の商業の中心であり、早朝から準備に勤しむ人もちらほらと見える。
「はっ、はっ、はぁ~」
橋を渡りきったところで、あたしは足を止めた。
一息つくように膝で体を支えながら、荒くなった息を静めていく。
「はぁ、はぁ。…おかしいな。昔は、もうちょっと走れたと思うんだけど」
中学の頃。
あたしは陸上部に所属していた。
だからといって、『陸上部の星』とか、『期待の大型新人』とかではまったくない。頑張れば補欠に入れるくらいの、どこにでもいる平凡な部員だった。まぁ、走ることは嫌いじゃなかったし、毎朝学校に行く前に走りこむくらいは部活に気合を入れていた。
…中2の春。部活で怪我をするまでは。
「ふぅ…」
額の汗をぬぐいながら、視界に入った真っ赤な髪をかき分ける。
最近になって、ようやくこの髪にも慣れてきた。ゲームだった頃は、ただ画面上で見つけやすいという理由で決めたカラーリングなので、この常時発火しているような頭に、特に思い入れなどない。
ないんだけど…
「うーん。この世界には、髪を染める習慣がないんだよなぁ。せめて、元の世界みたいに、茶色に染めたいんだけどなぁ」
髪を染める方法がない。じゃあ、丸刈りにしてしまおうか。そんなことを本気で考えていると、ユキに怒られてしまった。
『ダメだよ! ミクは真っ赤な髪がすっごく似合っているのに! ボクは好きだよ。情熱的だし、力強いし。ミクにぴったりじゃない』
そう言って、あたしのボサボサの髪に触れた。羨むような、憧れるような目で、女の子になったユキが見つめてくる。
…女の子になったユキは可愛い。
その姿は、同性のあたしから見ても、可愛いと思ってしまうくらいだった。
だからというわけではないが、丸刈りを実行できずにいる。
「べ、別に、ユキに言われたからじゃないし! あたしも女子として、丸刈りはどうかなって思ってるだけだし! っうか、最近はそんなに気にならなくなってるし! 勘違いしないでよね!」
誰にいうわけでもなく、言い訳が口から零れてしまう。
あたしは素直じゃない。
そんなことはわかっている。
だからといって、恋する乙女とは、ちょっと違う気がする。
恋とは。
好きだけど、好きを知られたくない、乙女心。
綺麗で。
透明で。
純粋な想い。
…あたしは違う。
怒りや憎しみ、そして罪悪感。血のように真っ赤な感情が、心の奥で息を潜めている。
…あたしは違う。
…あいつを、ユキを好きになってはいけない。




