第69話「郷田源次郎」
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郷田源次郎にとって柔道とは、生まれる前から課せられた役割に過ぎなかった。
柔道一家の長男。実家も柔道場を経営していることから、柔道を始めることを宿命づけられていた。生まれたときからそばにあり、言葉を話すより先に柔道の受身を覚えた。まるで空気のように常に自分の周りにあり、寝る前に歯を磨くように柔道を続けた。
ゆえに、源次郎に柔道への熱意はない。
父親の語る柔道への想いも、誇りも、全く理解できなかった。
だが、それすらどうでもよかった。
人間は三度の食事をとる。一度、食事を抜いたからといって人間は死なない。だが、食事は三度とったほうがいい。その程度のことだった。自分の周りに空気が密着していても、誰も気にしない。
中学を卒業して、高校に入学した頃だった。
準備運動中に右膝を軽く痛めてしまった。軽い捻挫だった。怪我はたいしたことなく、その日は柔道場の隅で見学をして過ごした。懸命に柔道に励む部員達を見て、何となく違和感のようなものを感じた。
それ以降、たまに右膝が痛むことがあった。だが、痛みはすぐに消えるので、特に誰かに相談することはしなかった。
高校三年生の春。
源次郎にとって、高校での最後の一年であった。全国大会に出場した経緯から、体育系の大学への推薦が確定していた。だが、この頃から右膝の痛みが悪化しだした。月に一度だったのが、週に一度、三日に一度。そして、最近では毎日のように痛み出した。父親に相談し病院にも行ったが、原因はわからなかった。
不思議なことに日常生活では痛みが生じることはなかった。
決まって、部活の時間か自宅の柔道場でしか痛みださないのだ。
…源次郎には、嫌な予感がしていた。
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「よぉ、起きたか?」
目を開けると、そこには銀色の狼男が見下ろしていた。少しだけ時間がたって、それが陣ノ内であることを思い出す。
「…ここは?」
「サンマルコ広場のど真ん中だよ。ちなみに、お前が時計塔を壊しちまったせいで、広場の半分は瓦礫の山だ」
「…そうか」
ゲンジは周囲を見ようと身体を起こそうとする。だが、体が鉛のように重くなっていて、言うことを聞かない。
「…我は、…負けたのだな」
「あぁ。そりゃ見事な負けっぷりだったぜ」
「…なるほど。それは見苦しいところを見せたな」
ゲンジはため息をつきながら、わずかに苦笑する。
「…我を倒したのは、御影だな」
「なんだ、覚えているのか?」
「…うむ。薄らとだが、記憶に残っている」
「だったら、わかっているんだろう。色々と落とし前をつけないとな」
「…あぁ、そうだな」
ゲンジは無理やり体を起こすと、広場の端に目を移す。
そこには、この国の王女に抱きつかれるユキがいた。その隣には燃えるような赤い髪をしたミクが、不機嫌そうに二人を引き離そうとしている。右腕を庇いながら楽しそうに笑う少女を見て、ゲンジは感心したようにため息をつく。
「…御影は、…あいつは凄い奴だな」
「なんだ、今頃わかったのか?」
ジンが満足そうに笑う。
その顔を見ていると、先輩への敬語などどうでもよくなった。
「アイツはああやって、今までいろんな奴を救ってきたんだ。俺やミクだって、アンタと同じ。ユキに救われた人間なんだよ」
「ほう、それは意外だな。むしろ御影のほうが、お前に頼っているように見えたが」
「まぁな。ユキの凄さは見た目からじゃわからないからな」
「ふははっ、それは言えているな」
ゲンジが実に楽しそうに笑った。
何か憑き物が取れたように、表情が柔らかくなっている。
空には雲のない青空が広がっている。
あぁ、とても気分がいい。
「…なぁ、陣ノ内。お前は幻肢痛というものを知っているか?」
「なんだそりゃ?」
肩をすくめて聞き返すジンに向けて、ゲンジは答える。
「…我の病気だ」
「は?」
「簡単に言うと、無いはずの痛みだ。切り落とした手や足が痛むことがあるらしい。我の場合は膝だ。原因の捻挫は治っているにもかかわらず、今でも酷く痛むことがあるのだ」
「この世界に来てからもか?」
「あぁ、そうだ」
ゲンジは淡々と答える。
「医師が言うには、精神的なストレスが原因らしい。落ち着くまで柔道は控えるようにと言われた」
「だから、最近は部活を休んでいたのか」
ゲンジはわずかに頷く。
やがて少しだけ黙ってから、口を開く。
「…わかっているのだ。柔道が原因、…いや、柔道を続けることに疑問を持ってしまった。その心のしこりが少しずつ大きくなっていたのを感じていた」
思い出すように目を細める。
「高校一年のときだ。右膝を捻挫して、部活を見学したことが一度だけある。それまで柔道を客観的に見ることがなかったので、何か不思議なものを感じたのだ。もっと言えば、畳の上で相手を倒すことの何が面白いのか、我にはわからなかった」
ジンは黙って耳を傾ける。
「そんな興味もないことで大学に進学してもいいのか? 三年生に進級してからは、そんなことばかり考えていた。膝の痛みが強くなるのも当たり前というわけだ。…まったく、情けない」
ゲンジは目を閉じて嘆息する。
「…それで自暴自棄になったと。ははっ、とんだ迷惑野郎だな」
「…耳が痛いな」
そう答えながらも、ゲンジの表情は晴れやかであった。
ジンはそんなゲンジを見下ろしながら言った。
「…誰でも死ぬほど辛いことを抱えて生きている。郷田源次郎、アンタの失敗は柔道を続けたことじゃない。誰にも打ち明けなかったことだ。愚痴も言わず、ただひたすら立派であろうとしたことだ。一人で考え込んでも、何も解決しねぇだよ」
ジンは視線を上げて広場の端にいるミクを見る。
不機嫌そうに怒りながら、ユキのことを追って走っている。
「ミクの奴はな。中学の頃に背骨を傷めて、二度と陸上競技に参加できなくなったんだ。ハードルや幅跳びはおろか、日常生活で走ることまで禁止された。長時間歩くだけで背骨に負担が掛かり、今度痛めたら二度と歩けないかもしれない。そんな不安を抱えながら、アイツは生きているんだ」
ゲンジが驚いたように目を見開いた。
「俺は小さいころに家庭崩壊していてな。捨てられるように親父に引き取られたよ。それからは、親父は愛人のとこに住み着いて、俺は強制的に一人暮らしを始めることになった。小学二年生の時だった。生きていくためにどうすればいいのか、必死に考えたよ。小学生で自分の生命保険を把握していたのは、俺くらいだろうな。父親に殺されないように、社会に殺されないように。全てのものを疑って生きてきた」
ジンは昔のことを思い出しながら、少しだけ表情を暗くさせる。
「…まぁ、なんだ。…俺達に比べれば、アンタはまだマシなほうだってことだ。膝が痛む? 将来が心配? そんなこと知ったことかよ。膝が痛むなら柔道をやめればいい。将来が心配なら勉強しろ」
ジンは乱暴に吐き捨てる。
だが、そこに含まれている優しさを感じてゲンジは言葉を失くす。
「…御影は?」
「は?」
「…御影はどうなのだ? アイツも何かを抱えて生きているのか?」
その問いは、何か確信めいた言葉だった。
ジンは頭をボリボリかいた後、重々しく口を開いた。
「…ユキがどうして女性キャラをアバターとして使っているか知っているか?」
ゲンジは黙って首を振る。
「あのアバターはな、…銃舞姫ユキは、アイツの姉さんの使っていたものなんだ」
「え?」
「二年前だ。ユキの姉さんは、ユキと自分の親友を庇って事故に遭った。酒を飲んだトラックのドライバーが歩道に乗り上げてな。結局、救急車が到着するまでに息を引き取ったそうだ。その時に助けられた二人が、ユキの姉さんの最後を看取った。わかるか? ユキは自分の姉が死ぬのを、ただ黙って見てることした許されなかったんだ」
不愉快そうに頭をボリボリとかく。
「…なんでユキが姉のアバターを使い続けているのかはわからねぇ。姉との繋がりが欲しかったのかもしれないし、姉の代わりを務めようとしたのかもしれない」
遠くでユキが楽しそうに笑っている。
後ろにアーニャとミクが立って、何か言い争っている。どうやら、髪型で揉めているようだ。
「…ユキの傷は深い。自分でも気づいていないくらいにな」
ジンは厳しい目つきでユキのことを見た後、地面に倒れているゲンジを見下ろす。
「…ここまで話したんだ。もう、二度とこんなことをするなよ。それと、今話したことは他言無用だ。誰にも話すなよ。もちろん、本人にもだ」
「…あぁ。了解した」
ゲンジは真剣な目つきで答えた。
「…よしっ。それじゃ」
ジンがゲンジに手を伸ばす。
「…立てるか?」
その行為に、ゲンジは熱いものを感じた。
ここまで自分勝手なことをしていて、それでも仲間でいることを許してくれることに感謝した。
「…あぁ」
ゲンジは黙ってジンの手をとる。
そろそろ、一人でも立ち上がれそうだったが、あえてジンの手をとった。
「それじゃ、ユキやミク。あと、あの姫さんに謝りに行くぜ」
「…そうだな」
誰かと肩を並べて歩く。
それが、心に響いた。




