第59話「断頭台とアーニャ」
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海洋国家ヴィクトリアの象徴は有翼の獅子だ。
この国の玄関。サンマルコ広場にも、この有翼の獅子を見ることができる。広場の入口に背の高い二本の柱があり、その上に翼を持った獅子が鎮座している。この二本の柱は外客を招くものとは別に、もう一つの顔を持っている。
それが、罪人の首を落とすために設置された、断頭台の存在だ。
ヴィクトリアでは、公開処刑が行われることがある。
その時には、この有翼の獅子の立つ二本の柱が、罪人を黄泉へと誘う門となるらしい。
今、その断頭台を複数の男が囲んでいる。
太陽が東の海から昇り、朝日がサンマルコ広場を照らす。男達は皆軍服を着ていて、手にはマスケット銃を携えている。
その男達の中に、一人だけ背の低い少女がいた。
猫のようにフードの耳を立てて、飾りの尻尾が歩くたびに左右に揺れる。
明らかに場違いな彼女だったが、その場にいた誰よりも堂々と歩いていた。これから処刑さえる人間とは思えないほどの雰囲気を放っている。
それが、アリーシア・ヴィクトリア。
この国の王女であり、いつだって笑顔を絶やさないのに、心の底では人肌に焦がれている孤独な女の子。
その彼女が処刑台へと悠然と歩いている姿を、その場の全員が静かに見守っていた。
「…これでよかったのかなぁ」
誰にも聞こえないような声で、アーニャは呟いた。
フードを深くかぶって目線を隠す。足元だけを見つめて、淡々と歩を進める。
「…よかったんだよね。最善じゃないかもしれないけど、最悪でもない。これで嫌なことから全部、…終わりにできる」
昇ったばかりの太陽が足元を照らす。
長い影が伸びて、断頭台へと差し掛かる。
「…それに、あの人も」
アーニャは静かに自らの人生を振り返っていた。
良いことと悪いこと。
どちらもあった。
でもやっぱり、悪いことのほうが多かった気がする。
大人たちに酷いことされて。殴られて、蹴られて、死にたくなって。
逃げたくても、逃げられなくて。
夜も眠れなくて、男の人が怖くなって。
ほら、やっぱり悪いことのほうが多かった。
それだったら、死んでもいいかな。これからも嫌なことをいっぱい抱えないといけないなら、ここで死んだほうが楽になれる。
良いことなんて、一つもなかったよ。
…これでよかったのかなぁ。
…こんなんでよかったのかな、私の人生。
もう、終わりなんだから、どうでもいいか。
やっと、楽になれる。
嫌なことが終わるんだ。そう思うと、気持ちが軽くなる。
心が晴れやかになる。
怖いものなんて何もない。
ただ、私が消えるだけ。
それだけだ。
「上がれ」
不意に男の声がして、アーニャは脅えるように肩を震わせる。
目の前には、気でできた断頭台と、無機質に輝く大きな刃があった。アーニャは男から逃げるように、断頭台へと上っていく。
「頭を載せろ」
言われた通りに、穴の開いた木の板に頭を載せる。手には手錠をかけられて、身動きがとれなくなる。
なるべくなら早くしてほしい。
早く部屋に帰って、お風呂に入りたいのに。ゆっくり暖まって、ベッドで一日中ごろごろしてたいのに。あっ、そういえばお風呂の掃除をしていなかったっけ。
「…よって、被告を死刑と処す」
久しぶりのお客だったから、念入りにお風呂掃除したのに、一緒に入りそびれちゃったんだよね。…あれ? 誰と一緒にお風呂に入ろうとしたんだっけ?
「…被告人、何か言い残すことはないか?」
よく、思い出せない。
あはは、おかしいな。
…あんなに好きだったのに。
「…では、死刑を実行する」
ギリギリギリ。
大きなギロチンがゆっくりと上がっていく。これが落ちたら、それでおしまい。
もう、いいの。
…幸せな未来を想像させないで。
「賊だ!」
誰かが叫んだ。
「神聖な処刑を邪魔する不届き物だ。撃ち殺せ!」
「撃て! 撃て!」
パン、パン、パン!
耳をつんざく銃撃音が聞こえてきて、アーニャはゆっくりと目を開いた。
そして、遠くにいる少女を目に映す。
長い黒髪をなびかせて、凛とした足取りでこちらに向かってくる。
精悍な顔つきは、幼くもあって大人びてもいる。手に持った銃が、あまりにも不釣合いだ。綺麗なドレスでも着ていれば、どこかのお嬢様のようなのに。
心が、身体が、熱くなる。
彼女が笑うだけで、私まで嬉しくなる。
…あぁ、そうか。
…これが『恋』なんだ。
「…ユキ」
アーニャが彼女の名前を呼ぶ。
それと同時に、押し込めていた気持ちが溢れてきた。
…死にたくない。
…死にたくない、死にたくない。
…まだ、『終わり』にしたくないよ!
「ユキーーーーーッ!」
心の底から、愛しい人の名前を叫んだ。




