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第59話「断頭台とアーニャ」


――◇――◇――◇――◇――◇――◇―― 


 海洋国家ヴィクトリアの象徴は有翼の獅子だ。

 この国の玄関。サンマルコ広場にも、この有翼の獅子を見ることができる。広場の入口に背の高い二本の柱があり、その上に翼を持った獅子が鎮座している。この二本の柱は外客を招くものとは別に、もう一つの顔を持っている。


 それが、罪人の首を落とすために設置された、断頭台の存在だ。


 ヴィクトリアでは、公開処刑が行われることがある。

 その時には、この有翼の獅子の立つ二本の柱が、罪人を黄泉へと誘う門となるらしい。


 今、その断頭台を複数の男が囲んでいる。


 太陽が東の海から昇り、朝日がサンマルコ広場を照らす。男達は皆軍服を着ていて、手にはマスケット銃を携えている。


 その男達の中に、一人だけ背の低い少女がいた。

 猫のようにフードの耳を立てて、飾りの尻尾が歩くたびに左右に揺れる。


 明らかに場違いな彼女だったが、その場にいた誰よりも堂々と歩いていた。これから処刑さえる人間とは思えないほどの雰囲気を放っている。


 それが、アリーシア・ヴィクトリア。


 この国の王女であり、いつだって笑顔を絶やさないのに、心の底では人肌に焦がれている孤独な女の子。


 その彼女が処刑台へと悠然と歩いている姿を、その場の全員が静かに見守っていた。


「…これでよかったのかなぁ」


 誰にも聞こえないような声で、アーニャは呟いた。

 フードを深くかぶって目線を隠す。足元だけを見つめて、淡々と歩を進める。


「…よかったんだよね。最善じゃないかもしれないけど、最悪でもない。これで嫌なことから全部、…終わりにできる」


 昇ったばかりの太陽が足元を照らす。

 長い影が伸びて、断頭台へと差し掛かる。


「…それに、あの人も」


 アーニャは静かに自らの人生を振り返っていた。


 良いことと悪いこと。

 どちらもあった。


 でもやっぱり、悪いことのほうが多かった気がする。

 大人たちに酷いことされて。殴られて、蹴られて、死にたくなって。


 逃げたくても、逃げられなくて。

 夜も眠れなくて、男の人が怖くなって。


 ほら、やっぱり悪いことのほうが多かった。

 それだったら、死んでもいいかな。これからも嫌なことをいっぱい抱えないといけないなら、ここで死んだほうが楽になれる。


 良いことなんて、一つもなかったよ。


 …これでよかったのかなぁ。

 …こんなんでよかったのかな、私の人生。


 もう、終わりなんだから、どうでもいいか。

 やっと、楽になれる。

 嫌なことが終わるんだ。そう思うと、気持ちが軽くなる。


 心が晴れやかになる。

 怖いものなんて何もない。

 ただ、私が消えるだけ。

 それだけだ。


「上がれ」


 不意に男の声がして、アーニャは脅えるように肩を震わせる。

 目の前には、気でできた断頭台と、無機質に輝く大きな刃があった。アーニャは男から逃げるように、断頭台へと上っていく。


「頭を載せろ」


 言われた通りに、穴の開いた木の板に頭を載せる。手には手錠をかけられて、身動きがとれなくなる。


 なるべくなら早くしてほしい。

 早く部屋に帰って、お風呂に入りたいのに。ゆっくり暖まって、ベッドで一日中ごろごろしてたいのに。あっ、そういえばお風呂の掃除をしていなかったっけ。


「…よって、被告を死刑と処す」


 久しぶりのお客だったから、念入りにお風呂掃除したのに、一緒に入りそびれちゃったんだよね。…あれ? 誰と一緒にお風呂に入ろうとしたんだっけ?


「…被告人、何か言い残すことはないか?」


 よく、思い出せない。

 あはは、おかしいな。


 …あんなに好きだったのに。


「…では、死刑を実行する」


 ギリギリギリ。

 大きなギロチンがゆっくりと上がっていく。これが落ちたら、それでおしまい。


 もう、いいの。

 …幸せな未来を想像させないで。


「賊だ!」


 誰かが叫んだ。


「神聖な処刑を邪魔する不届き物だ。撃ち殺せ!」


「撃て! 撃て!」


 パン、パン、パン!

 耳をつんざく銃撃音が聞こえてきて、アーニャはゆっくりと目を開いた。


 そして、遠くにいる少女を目に映す。

 長い黒髪をなびかせて、凛とした足取りでこちらに向かってくる。

 精悍な顔つきは、幼くもあって大人びてもいる。手に持った銃が、あまりにも不釣合いだ。綺麗なドレスでも着ていれば、どこかのお嬢様のようなのに。


 心が、身体が、熱くなる。

 彼女が笑うだけで、私まで嬉しくなる。


 …あぁ、そうか。

 …これが『恋』なんだ。


「…ユキ」


 アーニャが彼女の名前を呼ぶ。

 それと同時に、押し込めていた気持ちが溢れてきた。


 …死にたくない。

 …死にたくない、死にたくない。


 …まだ、『終わり』にしたくないよ!


「ユキーーーーーッ!」


 心の底から、愛しい人の名前を叫んだ。


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