第49話「ヴィクトリアの夜と、現実主義者の親友」
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ヴィクトリアの夜は肌寒い。
夏場であっても、薄手の外套が欲しいくらい涼しい。空には薄い雲がかかっているのか、月は見えない。それでも運河を挟んで見えるサンマルコ広場には、いくつもの松明が風に揺れながら、広場全体をほのかに照らしていた。
ボクは空っぽの頭で、寂れた教会前の階段に座っている。
スカートの中が見えないように膝をそろえて、両手をお腹のところで組む。髪は、ひとつ縛りにしたポニーテール。猫の飾りがついているシュシュが、風に揺れている。
「…あの姫さんが、連れていかれたらしいな」
低く唸るような声がした。
ボクはそちらに振り向くことなく返事をする。
「…うん」
銀色のたてがみを揺らしながら、大柄の狼男はボクの隣に座った。
ジンの言葉が、昼間のことが脳裏に蘇らせる。
襲ってくるゲンジ先輩。
何もできなかった自分。
そして、脅えるように震えていた、アーニャの背中。
「…明日の朝、処刑が執行されるらしい」
「そっか」
ジンが重々しく言うが、ボクは静かに頷く。
「えらく冷静だな。心配じゃないのか?」
「心配する必要がないよ。明日の朝ってことは、今だけはアーニャは無事だってことだから」
ボクは毅然と言い放つ。
そんなボクを見て、ジンが驚いたように目を見開いた。
「どうしたの?」
「…いや、もっと慌てると思っていただけだ。…何かあったのか?」
「…なにもないよ」
ジンが何かを察したかのように聞いてくるので、ボクは正直に答えた。
本当に何もない。
ただ、本来ある場所に戻っただけ。口では説明せず答えていると、隣のジンが堪えられないように忍び笑いを漏らしていた。
「…くっくっく」
「…ジン?」
「あっ、いや。悪いな。何だか、おかしくなってきて」
「そんなに変かな?」
自分の姿を見下ろして、そろえていた膝を慌てて開く。あえて、男が座るような姿勢に座りなおす。
「いいや、その逆だ。ようやくお前らしくなってきたな、ユキ」
「え?」
「昨日までは、妙に浮かれていたというか、足が地面に着いていなかったというか。とにかく、全然お前らしくなかったからな」
お前が足掻きもせずゲンジ先輩に負ける、なんて想像もできないからな。とジンはつけ加える。
「…そうかな?」
「そうだよ」
どうだろうか。唇に人差し指を当てながら考える。
「…で、これからどうする気なんだ?」
ジンが、少しだけ真面目な顔をして聞いてくる。
ボクは人差し指を唇から離すと、短く答えた。
「アーニャを助けに行く」
「本気か? 牢獄のある宮殿には、あのゲンジ先輩がいるんだぜ」
「うん。だから、一人じゃ無理なんだ」
そう言って、ボクは隣に座る親友の顔を見る。
すると、彼は嬉しそうに肩を揺らした。
「ははっ、最初から俺を巻き込む算段かよ」
「…ごめん」
ボクは申し訳なくなって頭を下げると、ジンは無言でボクの肩を叩く。
今さら何を言っているんだ、と顔に書いてあった。
本当に、ボクは友人に恵まれている。
「それで、あと何人必要なんだ?」
「…あと一人。いや、二人かな」
ボクは、アーニャを助けるために必要な仲間の人数を答える。
「合計四人か。それじゃ、あと一人は見つけないとな」
「ボクとジンと、…三人目は誰?」
「言わなくてもわかっているだろう」
ジンが肩をすくめる。
「仲間外れにすると後が怖いぞ。ミクの奴、手加減を知らないからな」
「そうだね」
ボクも思わず笑ってしまう。
「まぁ、最後の一人は俺に任せてくれ」
「どこか心当たりがあるの?」
「あぁ。無駄に街を歩き回っていたわけじゃないさ」
ジンが運河の向こうにある、ヴィクトリア本島を見つめる。
静かに見える、その表情は。誰のことを想っているのか。
ボクはなんとなく、わかる気がした。
「なぁ、ユキ。一つ聞いてもいいか?」
「なに?」
ボクはゆったりと座り直してから、返事をする。
「どうしてユキは、あの姫さんを助けようとするんだ?」
「どうして、って…」
返答に迷っていると、ジンが言葉を重ねてくる。
その内容に、ボクは言葉を詰まらせてしまう。
「だって、あのアーニャって子はNPCみたいなものなんだぜ」
「…」
NPC (ノンプレイヤーキャラクター)。
プログラムされたシステム。背景にような空っぽの人形。
ここがゲームで、ボクやジンがプレイヤーだとすれば、確かにアーニャはNPCだろう。それはオンラインゲーム《カナル・グランデ》をしていたころからわかりきっていることだ。
だけど…
「…本当にそんなことを思っているの?」
ボクは目を細める。
まるで非難するかのような目で、自身の一番の親友を見る。
「ねぇ、ジン。キミは本当に、アーニャがNPCだと思っているの? この世界が、オンラインゲームの延長だと、本気で思っているのかい?」
確かに、ここは。オンラインゲーム 《カナル・グランデ》の世界によく似ている。いや、もはや同一だと言ってしまっても構わないだろう。西洋風の町並みも、自分達を包み込む世界観も、魔法やスキルの存在も、どれをとっても《カナル・グランデ》そのものだ。
だけど、『仮想』ではない。
痛いのだ。
怖いのだ。
死に直面する恐怖が、血や傷となって自身の心臓を掴む。嘘ではない感情が、痛みをともなって込み上げてくる。
ここは良くも悪くも、…『現実』だ。
魔法やスキルの存在なんて、関係ない。嫌なことから逃げるのか、困難に立ち向かうのか、自分で選択しなくてはいけない。その選択だけは、誰のせいにもできない。
なりより彼女は。
困難に立ち向かう、という選択をした人間だ。
…心優しい女の子なんだ。
ボクはもう一度、ジンの目を見つめる。
すると、彼は自信ありげに答える。
「ふんっ、俺は現実主義者だからな。目の前の現実がゲームの世界だなんて、そんな楽しい妄想をしているほど暇じゃない。時間の無駄だ」
そう言って、やれやれと言うように肩をすくめた。
「まぁ、この世界を受け入れられない奴には、心当たりがあるけどな」
ジンは目を細めて、サンマルコ広場の隣にある宮殿を見る。
あそこには、ゲンジ先輩がいるはずだ。
ボクたちの、…仲間だったはずの。
「さて、現実逃避をしているバカな先輩に、灸でも据えてやるかな」
ジンはそう言って、教会前の階段を降りていく。
「俺はアイツを迎えにいってくる。集合場所は、ここでいいんだな」
「うん、よろしく」
召喚師である彼女がいないと、助け出した後の脱出手段がなくなってしまう。
ボクはジンを見送った後、自分の足元を見つめる。
無意識に膝をあわせている自分に、少しだけ恥ずかしくなる。ゆったりと立ち上がって、スカートについた砂を優しく払う。
ボクも準備しないと。
相手は、あのゲンジ先輩だ。
できる限りの準備と、持ちうる全てのスキルを使わなければ、勝負にもならない。
…でも、今なら。
…本気で戦える。
運河の前に立ち、水面に映る自分を見る。
可憐な少女が優雅に髪を掻き分けながら、凛とした表情を浮かべていた。




