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第49話「ヴィクトリアの夜と、現実主義者の親友」


――◇――◇――◇――◇――◇――◇―― 


 ヴィクトリアの夜は肌寒い。

 夏場であっても、薄手の外套が欲しいくらい涼しい。空には薄い雲がかかっているのか、月は見えない。それでも運河を挟んで見えるサンマルコ広場には、いくつもの松明が風に揺れながら、広場全体をほのかに照らしていた。


 ボクは空っぽの頭で、寂れた教会前の階段に座っている。

 スカートの中が見えないように膝をそろえて、両手をお腹のところで組む。髪は、ひとつ縛りにしたポニーテール。猫の飾りがついているシュシュが、風に揺れている。


「…あの姫さんが、連れていかれたらしいな」


 低く唸るような声がした。

 ボクはそちらに振り向くことなく返事をする。


「…うん」


 銀色のたてがみを揺らしながら、大柄の狼男はボクの隣に座った。


 ジンの言葉が、昼間のことが脳裏に蘇らせる。

 襲ってくるゲンジ先輩。

 何もできなかった自分。


 そして、脅えるように震えていた、アーニャの背中。


「…明日の朝、処刑が執行されるらしい」


「そっか」


 ジンが重々しく言うが、ボクは静かに頷く。


「えらく冷静だな。心配じゃないのか?」


「心配する必要がないよ。明日の朝ってことは、今だけはアーニャは無事だってことだから」


 ボクは毅然と言い放つ。 

 そんなボクを見て、ジンが驚いたように目を見開いた。


「どうしたの?」


「…いや、もっと慌てると思っていただけだ。…何かあったのか?」


「…なにもないよ」


 ジンが何かを察したかのように聞いてくるので、ボクは正直に答えた。


 本当に何もない。

 ただ、本来ある場所に戻っただけ。口では説明せず答えていると、隣のジンが堪えられないように忍び笑いを漏らしていた。


「…くっくっく」


「…ジン?」


「あっ、いや。悪いな。何だか、おかしくなってきて」


「そんなに変かな?」


 自分の姿を見下ろして、そろえていた膝を慌てて開く。あえて、男が座るような姿勢に座りなおす。


「いいや、その逆だ。ようやくお前らしくなってきたな、ユキ」


「え?」


「昨日までは、妙に浮かれていたというか、足が地面に着いていなかったというか。とにかく、全然お前らしくなかったからな」


 お前が足掻きもせずゲンジ先輩に負ける、なんて想像もできないからな。とジンはつけ加える。


「…そうかな?」


「そうだよ」


 どうだろうか。唇に人差し指を当てながら考える。


「…で、これからどうする気なんだ?」


 ジンが、少しだけ真面目な顔をして聞いてくる。

 ボクは人差し指を唇から離すと、短く答えた。


「アーニャを助けに行く」


「本気か? 牢獄のある宮殿には、あのゲンジ先輩がいるんだぜ」


「うん。だから、一人じゃ無理なんだ」


 そう言って、ボクは隣に座る親友の顔を見る。

 すると、彼は嬉しそうに肩を揺らした。


「ははっ、最初から俺を巻き込む算段かよ」


「…ごめん」


 ボクは申し訳なくなって頭を下げると、ジンは無言でボクの肩を叩く。

 今さら何を言っているんだ、と顔に書いてあった。

 本当に、ボクは友人に恵まれている。


「それで、あと何人必要なんだ?」


「…あと一人。いや、二人かな」


 ボクは、アーニャを助けるために必要な仲間の人数を答える。


「合計四人か。それじゃ、あと一人は見つけないとな」


「ボクとジンと、…三人目は誰?」


「言わなくてもわかっているだろう」


 ジンが肩をすくめる。


「仲間外れにすると後が怖いぞ。ミクの奴、手加減を知らないからな」


「そうだね」


 ボクも思わず笑ってしまう。


「まぁ、最後の一人は俺に任せてくれ」


「どこか心当たりがあるの?」


「あぁ。無駄に街を歩き回っていたわけじゃないさ」


 ジンが運河の向こうにある、ヴィクトリア本島を見つめる。

 静かに見える、その表情は。誰のことを想っているのか。

 ボクはなんとなく、わかる気がした。


「なぁ、ユキ。一つ聞いてもいいか?」


「なに?」


 ボクはゆったりと座り直してから、返事をする。


「どうしてユキは、あの姫さんを助けようとするんだ?」


「どうして、って…」


 返答に迷っていると、ジンが言葉を重ねてくる。

 その内容に、ボクは言葉を詰まらせてしまう。


「だって、あのアーニャって子はNPCみたいなものなんだぜ」

「…」


 NPC (ノンプレイヤーキャラクター)。

 プログラムされたシステム。背景にような空っぽの人形。

 ここがゲームで、ボクやジンがプレイヤーだとすれば、確かにアーニャはNPCだろう。それはオンラインゲーム《カナル・グランデ》をしていたころからわかりきっていることだ。


 だけど…


「…本当にそんなことを思っているの?」


 ボクは目を細める。

 まるで非難するかのような目で、自身の一番の親友を見る。


「ねぇ、ジン。キミは本当に、アーニャがNPCだと思っているの? この世界が、オンラインゲームの延長だと、本気で思っているのかい?」


 確かに、ここは。オンラインゲーム 《カナル・グランデ》の世界によく似ている。いや、もはや同一だと言ってしまっても構わないだろう。西洋風の町並みも、自分達を包み込む世界観も、魔法やスキルの存在も、どれをとっても《カナル・グランデ》そのものだ。


 だけど、『仮想』ではない。


 痛いのだ。

 怖いのだ。

 死に直面する恐怖が、血や傷となって自身の心臓を掴む。嘘ではない感情が、痛みをともなって込み上げてくる。


 ここは良くも悪くも、…『現実』だ。


 魔法やスキルの存在なんて、関係ない。嫌なことから逃げるのか、困難に立ち向かうのか、自分で選択しなくてはいけない。その選択だけは、誰のせいにもできない。


 なりより彼女は。

 困難に立ち向かう、という選択をした人間だ。

 …心優しい女の子なんだ。


 ボクはもう一度、ジンの目を見つめる。

 すると、彼は自信ありげに答える。


「ふんっ、俺は現実主義者だからな。目の前の現実がゲームの世界だなんて、そんな楽しい妄想をしているほど暇じゃない。時間の無駄だ」


 そう言って、やれやれと言うように肩をすくめた。


「まぁ、この世界を受け入れられない奴には、心当たりがあるけどな」


 ジンは目を細めて、サンマルコ広場の隣にある宮殿を見る。

 あそこには、ゲンジ先輩がいるはずだ。

 ボクたちの、…仲間だったはずの。


「さて、現実逃避をしているバカな先輩に、灸でも据えてやるかな」


 ジンはそう言って、教会前の階段を降りていく。


「俺はアイツ(・・・)を迎えにいってくる。集合場所は、ここでいいんだな」


「うん、よろしく」


 召喚師である彼女がいないと、助け出した後の脱出手段がなくなってしまう。


 ボクはジンを見送った後、自分の足元を見つめる。

 無意識に膝をあわせている自分に、少しだけ恥ずかしくなる。ゆったりと立ち上がって、スカートについた砂を優しく払う。


 ボクも準備しないと。

 相手は、あのゲンジ先輩だ。

 できる限りの準備と、持ちうる全てのスキルを使わなければ、勝負にもならない。


 …でも、今なら。

 …本気で戦える。


 運河の前に立ち、水面に映る自分を見る。

 可憐な少女が優雅に髪を掻き分けながら、凛とした表情を浮かべていた。

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