最終話「世界が閉じていく。…ウチも楽しかったよ」
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「ひっく、えぐっ」
アーニャが目を覚まして、およそ10分が経っていた。
その間、彼女は泣き続けていた。
周りにいるメンバーたちのことを気にする余裕もなく、仰向けのまま大粒の涙をボロボロと零していく。両腕で顔を隠してはいるが、流れる涙までは隠しきれない。
悔しいのか、悲しいのか。
それは誰にも推し量ることはできない。彼女の心は、彼女のみぞ知るのだから。
「えぐっ、ひっく」
「……アーニャ」
ボクはその光景を少し離れたところから見ていた。
さすがに立っていることができず、地面に腰を下ろして膝を立てている。
「……」
「……」
他のメンバーたちも、誰も喋らない。事の成り行きを静かに見守っている。
その中で、最初に口を開いたのは、意外にも快司君だった。
「アーニャさん。……いえ、姫野茉莉さん」
快司君は、彼女の本当の名前に言いなおしてから言葉を続けた。
「あなたに伝えなくてはいけないことがあります。このゲームの世界のサービス延長が決定しました。ですので、あなたの意思に関係なく、この世界は存続することになりました」
その事務的な報告に、アーニャは、……姫野茉莉は更に感情を荒立てた。
「ひっく! ……だったら、私のことなんか、……放っておけばよかったのに!」
「それはできません」
「なんで!?」
茉莉が涙を浮かべながら睨みつける先で、快司君は哀しそうな表情を浮かべる。
「……あなたが戻ってくるのを、待っている人がいるから」
「……え?」
その答えに、茉莉は激しく困惑した。
「う、嘘よ! 向こうに戻っても、誰も待っているわけがない! だって、私は両親にも捨てられた子なのよ!」
彼女の嘆きがこの部屋に響き渡る。
一番遠くにいたはずのハーメルンさんが、わずかに表情を曇らせた。
「現実に戻っても、いいことなんてないのに! なんで!? どうして!? どうして戻らなくちゃいけないの!?」
茉莉の問いに答えるものはいない。
誰もが俯いて、口を閉ざす。
皆は知っているから。
……現実ってやつは、優しくないことを。
「そうだね。どうして戻らないといけないんだろうね?」
気がつくと、ボクは喋りだしていた。
彼女の傍に近寄りながら、頭に浮かんだ言葉を声にしていく。
「現実なんて辛いことばかりさ。頑張っても、頑張っても、誰も褒めてはくれない。成功するのは才能がある人だけだし、失敗しないのは立ち回りが上手な人ばかり。……ほんと、嫌になっちゃうよね」
ボクは仲間の顔を順番に見ていく。
自分でも、何を話そうとしているのか分からなかった。
「皆が同じことを思っているさ。……頑張るだけ無駄、努力するだけ無駄。それだったら目の前の楽しいことに飛びついたほうがいい。辛くないほうへ、苦しくないほうへ。楽なことばっかりして流されていけばいい。社会に出ることもせず、大学を受験せず、自分の大切なものだけを囲って生きていく。それはきっと、……とても幸せな生き方」
ふぅ、とため息をつく。
「現実なんてクソ食らえさ。この世界か現実かを選べなんて言われたら、ボクだってこの世界を選びたくなる。だって、こっちのほうが楽しいからね」
「……ひっく、……ユキ」
茉莉が目を覚まして初めて、こちらを見た。
「……じゃ、じゃあ、……なんで現実に戻れなんていうの?」
哀願するような目だった。
お願いだから、そんなことを言わないで、……と言われている気がした。だが、ボクは彼女の願いを断ち切るように言った。
「さっきも言われたでしょ? 君には、君の帰りを待っている人がいる。だから、君は帰らなくちゃいけない」
「嘘よ! 私のことを待っている人なんて、いるわけがない!」
「それが、いるんだ。毎日毎日、君が目を覚ますことを信じて、病院のベッドに寄り添っている人が。その人は、今この瞬間も君の手を握り続けている」
「っ!?」
彼女の顔が驚愕に包まれる。
「そ、そんな人が、いるわけが―」
「姫野茉莉さん」
ボクは初めて、彼女のことを本当の名前で呼んだ。
「あなたの母親から伝言です。……ごめんなさい。許してほしいなんて言わないから。もう一度だけ、あなたに会いたい」
「……え」
再び、茉莉の目が見開かれる。
乾くことのない涙が、その瞳を揺らす。
「……なに、それ?」
「君の母親からの伝言だそうだよ。これもジンから聞いた話だけど、君が現実世界で意識を失ったとき、一番心配をしていたのは君の母親だったそうだよ。一向に目を覚まさない娘に、毎日看病をして、時間があるときは一日中だって寄り添っていたとか」
「……」
茉莉から何の反応もない。
それはそうだろう。自分に酷い仕打ちをしてきた母親が、今は献身的に寄り添っているなんて、想像もできないことかもしれない。
「う、うそよ」
開口一番、彼女はそう言った。
「嘘に決まっている。そんなことあるわけがない。だって、お母さんは私のことが嫌いで―」
「嫌いだったわけじゃない。ただ母親として、どう接したらいいのか分からなかったんだ。自分に余裕がなくて、君に辛く当たることしかできなかった」
まぁ、それだけでも親失格ではあると思う。
「だけど、君がいなくなって、初めて自分の愚かさを自覚したらしい。こちらの都合ばかり押しつけて、なんて酷い母親だったのかと。そのことを何日も嘆いて、今も自分のことを攻め続けている」
「あ、ありえない! あの人がそんなことを気にするわけが―」
信じられない、と茉莉は声を荒らげる。
そんな彼女を見て、それまで黙っていたジンが口を挟む。
「本当のことだぜ、姫さん。俺は実際にあの人に会った。身なりも質素な普通のおばさんさ。そんな人が毎日毎日、姫さんの看病をするために病院に通っているんだぜ。関節が固まらないように体を動かして、いつ目が覚めていいように服や学校の制服を用意したりしてな」
そうなのだ。
ジンが現実世界に戻った時、現実の茉莉と会っているのだ。
そして、そこで快司君に話を聞いて、実際に彼女の母親と会っている。その時に、言伝を頼まれた。……もう一度、会いたい、と。
「そんな、そんなこと―」
えぐっ、と込み上げてきた涙を拭いながら、再び両腕で顔を隠す。
「信じられるわけが、……ない―」
「本当のことだよ、茉莉」
突然、彼女の言葉を遮るように初老の男の声がした。
メンバーが一斉にそちらを見ると、山羊の獣人ハーメルンが悲しい目で見ていた。
「お前は知らないかもしれないが、お前の母さんの慌てぶりは尋常ではなかった。食事も喉が通らず、最初の一カ月は病院に泊まり込みで看病していたのだ。お前が目を覚ますことを信じて」
「……ハーメルン? なんで、あなたが―」
彼の声を聞いて、初めてハーメルンさんがいることに気がついたらしい。
涙を溢れさせながら、彼のほうを見る。
「あなたは、私に作られたNPCのはず。それなのに、なんで現実のことを知っているの?」
「私はNPCなどではない。……茉莉。私はお前の祖父である、姫野葉造だよ」
「……え」
彼女はあまりの事実に言葉を失う。
ボクは前もって聞いていたからいいけど、知らなかったメンバーたちも目が点になっていた。
「……おじい、ちゃん?」
「あぁ、そうだ。今まで黙っていて悪かったな。だが、私も息子夫婦と同罪なのだ。肝心なところでお前を守ってやれなかった。本当にすまないと思っている」
そう言って、ハーメルンさんは深く頭を下げた。
結局のところ、茉莉は独りではなかった。
現実世界では、母親が看病していて。
ゲームの世界では、祖父が見守っていて。
そして、何より。楽しく笑い合っていられる仲間たちがいた。
彼女の居場所など、最初からあったのだ。
こんな薄暗い地下迷宮の奥なんかじゃなく、もっと明るい光の当たる場所に。
「……ひっく、えぐっ……そんな、そんなことって―」
彼女の涙を見つめながら、これまでのことを振り返える。
いろんなことがあった。
辛いことも、苦しいことも、たくさんあったけど。
やっぱり楽しいことのほうが多かった。
そう思いたい。
「……アーニャ」
ボクは敢えて、ゲームマスターとしての彼女の名前で呼ぶ。そして彼女の頬に手を触れて、優しく撫でていく。
「……確かに現実なんて辛く苦しいことばかりだけどさ、それでも楽しいこともある。その楽しいことを大切にしながら毎日を生きていく」
「……えぐっ、……ユキ?」
「もし、どうしても辛いときは、独りで抱えずに声を出して。だって君には、仲間がいるんだから。間違った道を選ぼうものなら、拳で止めてくれる友達がいるんだ。何も怖いものなんてないさ」
ボクは顔を上げて、仲間たちの方を見た。
すると、全員が力強く頷いてくる。頼もしく心強い友達がいて、そしてボクもいる。誰よりも君の近くで守っていく。
「さぁ、帰ろう。……皆と」
「……うん」
茉莉は小さく頷くと、片手を天井へと向けた。
それと同時に、わずかな振動が部屋全体を包み、光の中に溶けていく。
ボクはそっと彼女のことを抱きしめながら、最後の時を迎えたー
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……世界が、閉じていく。
海洋国家ヴィクトリア。その美しい景観を作っていた建造物が、次々と光に消えていく。サンマルコ広場。時計塔。リアルト橋。そしてヴィクトリア宮殿。少年たちが笑い合い、泣いて、苦悩して、戦って。そうやって築かれた物語が幕を下ろしていく。
人生は、楽しいことのほうが多い。
そう思える時があった。
彼らがここを去り、この街も消えていく。
あとは思い出となって、少年少女たちの心に刻まれる。
そう切に願う。
……。
……さようなら、ユキ。
……ウチも楽しかったよ




