第73話「女だったら拳で語りたまえ!」
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「……ぶはっ!」
頬を深々と抉られて、アーニャの体は盛大によろめいた。
ボクは右の拳に手ごたえを感じながら、地面へと倒れていく彼女を見ていた。だが、そうなならなかった。
「っ!」
なんと、アーニャはぎりぎりのところで踏み留まったのだ。
地面に膝をつけることもしない。
強烈な一撃に、意識を失っていてもおかしくないのに。
彼女は、倒れなかった。
「……んあぁぁぁっ!!」
そして、更に意外なことに。アーニャが殴り返してきたのだ。獣のような叫び声を上げて、ギラギラと瞳を燃やして、その小さな手で握った拳を振りかざした。
「っ!」
唐突なことに、ボクも反応が遅れる。
避けようとするが、彼女のほうが一歩速く、その拳を顔面で受け止めてしまった。
「ぶっ!」
ぐらっ、と頭が揺さぶられる。
思いの他、良いものを食らってしまった。
逆に、こちらが意識を失いそうになる。
「……ぐっ、……このっ!」
ボクは何とか態勢を立て直して、お返しと言わんばかりに彼女の胸倉を掴む。そして、そのままもう一発。右頬に拳を叩きつける。
「がはっ!」
それでも、アーニャは倒れない。
体をよろめかせながらも、猛然と殴りかかってくる。
喧嘩のやり方なんてわからないのだろう。
握った拳を、とにかく振り回してくる。
その内の2発をもらって、1発を返した。整っていた彼女の顔に、赤い痣が浮かんでくる。ぜぇぜぇと荒い息を吐いて、ふらふらの体で何とか立っている。それでも彼女の瞳からはギラギラした光は消えず、叫び声を上げながら殴りかかってくる。そんな姿を、他のメンバーは静かに見つめていた。
「……この、このぉ!」
「……っ、……らあっ!」
最後には、お互い守ることを止めた。
ただ、ひたすら殴って、殴られて、また殴って……
こうなったら意地だ。
気持ちが先に切れたほうが、倒れてしまう。
ボクの意地が強いか、アーニャの気持ちが強いか、根比べだ。
「「あああぁぁぁぁっっ!!」」
彼女の拳が、心に深く響いてくる。
辛い。
痛い。
苦しい。
そんな暗い感情ばっかり流れ込んでくる。
「……やあっ! ……このっ!」
アーニャの猛攻に、ボクは何もできず殴られ続けた。
どこにこんな力を残しておいたのか、そう思うほどの重い拳に、こちらの気持ちがどんどん削られていく。必死に形相で、瞳に敵意を宿して。
いったいどれほどの感情を、この小さな体に押し込めてきたのだろう。
学校でイジメられて、両親からも見放されて。逃げた先のこのゲームの世界でも居場所を失おうとしている。それは、きっと恐怖だ。自分の居場所を失うことへの恐怖が、彼女の激情を駆り立てている。……そんな気がした。
「……もう、……もう来ないでっ! 私のことなんか、放っておいてよ!」
そして、堰を切ったかのように、アーニャが感情が溢れ出す。
「私がどうなったって、あなたに関係ないでしょ! 邪魔をしないで! 私がやることに口を出さないで! 何よ、勝手に恋人になったつもりなの!? ふざけないで、私のことなんか何も知らないくせに! 本当の姿さえ見たこともないくせに! あなたたちの友情ごっこなんかに巻き込まないで! もう放っておいてよっ!」
振り下ろされる拳に、吐かれる言葉に。
ボクはひたすら打たれ続けた。
意識が朦朧としてくる。
視界か霞みそうだ。
力も入らない。
それでも、ボクは彼女の前に立っている。
立っていなくちゃいけない。
「……はぁはぁ、もう帰ってよ。……私を、一人にさせて」
最後の一発が、トンッと胸を叩く。
全ての力を使い果たしたのだろう。その拳には、握られてすらなかった。ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、ボクの胸に手を置いて、顔を下に向けている。言いたいことも言い尽くしたのか、口から出てくるのは辛そうな呼吸ばかり。
そんなアーニャに向かって。
ボクは優しい声で囁いた。
「……言いたいことは、それだけ?」
「……」
彼女は答えなかった。
答える必要がなかった。
心に溜まった暗い感情をすべて吐き出して、彼女は今、何にも囚われていない。一緒に過ごしてきた、この一年弱。ようやく言いたいことを全部言えたのかもしれなかった。そして、彼女が口にした言葉の、その全てが本心ではないことも理解していた。
……さぁ、これで。
……終わりにしよう。
ボクはそっと、アーニャから離れた。
そして、右手の拳にありったけの力を込める。膝を屈めて、腰を落として、自分の気持ちを込めていく。……もう放っておいてとか、一人にさせてとか、……そんなこと、……そんなこと。
「そんなこと、知ったことかーーーーーーlッ!!!」
渾身の一撃で、彼女のことを殴り飛ばした。
彼女の体はわずかに宙を舞い、そして地面へと倒れていく。
さすがに起き上がることはなかった。まるで憑き物が落ちたかのような安らかな顔で、アーニャは気絶していた。
最後の戦いが終わった瞬間だった―




