第15話「デートの終わりに」
「いっぱい遊んだね」
「うん、そうね」
ボクたちは海に沈む夕日を見ながら、笑顔で喋っていた。
今日1日。それまでのすれ違いを埋めるかのように、アーニャのと時間を満喫していた。2人で行ったことのない店で買い物しては、近くのカフェで休憩し、美術館や劇場に入っては、またカフェでお喋りをする。特別なことなんてないけれど、それがとても大切な時間のように感じだ。
「こんなに遊んだのなんて、生まれて初めてかもしれない」
「あはは、私もそうだよ」
アーニャはずっと笑顔を浮かべている。
本当に幸せそうだった。
……この後に話すことを思うと、それだけで憂鬱になってくる。夕陽が沈んで1日が終わるように、楽しい時間だって終わりが来る。だけど、その終わりを自分から切り出すのは、やっぱり勇気のいることだった。
「ねぇ、アーニャ。ちょっと話したいことがあるんだけど―」
「あっ、ユキ。お腹は空いてない? もう私はぺこぺこだよ」
私の話が聞こえないかのように、アーニャは言葉を続ける。
「メルチェリエ通りに新しいパスタのお店ができたんだって。これから食べに行かない?」
「……うん、そうだね」
私は曖昧に答える。
「じゃあ、決まりね。遅くなると混んじゃうかもしれないから、すぐに行こう」
そういって、アーニャは踵を返そうとする。
そんな彼女を手を、私は慌てて掴んだ。
「待って、アーニャ」
「え?」
「今日はアーニャに大切な話があるの。だから、お願い。ちょっとでいいから私の話を聞いて」
私は真剣な目で彼女のことを見る。
すると、アーニャが驚いた顔でこちらを向いた。だが、すぐに先ほどまでの穏やかな表情となる。
まるで私が何を言おうとしているのか、わかっているような顔だった。
「……そっか。……もう、時間なんだね」
「アーニャ?」
「ううん、大丈夫。最初からわかっていたことだから」
にこり、とアーニャが儚い笑みを浮かべる。
「あーあ。ここまで頑張ってきたんだけどなぁ。人生って、なかなか上手くはいかないものなんだねぇ。この世界でも、……現実の世界でも」
「……」
この時、私は初めてアーニャの口から『現実の世界』という言葉を聞いた。
「それで? ユキはどんなの話をしてくれるのかな?」
「……アーニャ。あなたは―」
一瞬、口が止まりそうになる。これを聞いてしまったら、もう元の関係には戻れない。
それがわかっていても、私は問う。
前に進むために、問う。
「あなたは一体、何者なの?」
彼女が沈黙していたのは、ほんのわずかな時間だった。
「あちゃ~、いきなり確信を聞いてきたか~」
困った笑いながら、アーニャは頭をポリポリとかく。
「そのことは話したくないなぁ。……話したくない。でも、いつかは話さないといけないことだよね」
「……」
私はアーニャが話し出してくれるのをじっと待った。
風が吹く。
冬の空気は冷たい。
海の波は荒々しく、たまに水しぶきの音がここまで聞こえてくる。
海鳥の姿はない。
そういえば猫の姿も見ない。街の人もまばらで、あれだけいた人間はどこにいってしまったのか。これではまるで、この場所には私とアーニャしかいないみたいだった。
「きっかけはね。本当に些細なことだったの」
アーニャは夕日に目を細めながら言った。
「ある日、学校に行くと、机に落書きがしてあったの。それは本当に小さな落書きで、子供の頃はそんな悪ふざけくらいは普通にあると思うの。……でも、その子は違った。その些細な悪戯にショックを受けて、友達とうまく話すことができなくなってしまった。周囲から孤立して、いつも独りぼっち。そんな孤独に耐えられなかったその子は、とうとう学校に行くことをやめてしまったの」
穏やかな口調だった。
まるで、詩人が歌っているかのようだった。
「ある日、その子は1つのゲームと出会う。オンラインRPG『カナル・グランデ』。暗い自分の部屋とは比べ物にならないくらい、夢と希望にあふれた世界。見たことのない風景に、その子は没頭した」
はぁ、とアーニャが溜息をつく。
「本当に好きだったの。会ったことのない人でも、皆が親切にしてくれた。……そりゃ、意地悪な人もいたけど、それも含めてこの世界のことが好きだった。その子にとって、ゲームをしている時だけが、生きているという実感を持つことができた」
そこまでいって、急に表情を険しくさせた。
「……変化は突然訪れた。その子がゲームをしている間、その意識だけがゲームの世界に入っていた。最初は錯覚だと思っていた。だが、そのゲームの世界にいる時間がどんどん鮮明となっていき、遂にはゲームの住人と同じような存在になってしまった」
アーニャは一度口を閉じると、くるりとこちらを向いた。
「それが、私。……アーニャ・ヴィクトリアでもなく、世界の支配者でもない」
胸に当てた手を握りしめ、声を絞り出すように言った。
「……私の名前は、姫野茉莉。ユキたちと同じ現実世界の人間で、引きこもってゲームばかりしていた女の子」
「アーニャが、……私たちと同じ世界の人?」
「うん」
彼女は小さく頷く。
「私にとって『カナル・グランデ』というゲームは、現実からの逃げ場所だった。嫌なことがあったり、辛いことがあったりすると、すぐにパソコンの前に座ってゲームを始めたわ」
ふぅ、と軽く息をはく。
「……私の両親はね、とても気難しい人たちだった。教育に厳しい父親と、世間体ばっかり気になる母親。学校に行けなくなると、すぐに両親は私の外出を禁じた。そして、ものすごく厳しい男の家庭教師をつけたの。勉強だけは遅れないように、って」
アーニャの表情がちょっとだけ曇る。
「本当に厳しい人だった。予定されていたカルキュラムが熟せないと、問答無用で平手打ちを受けたわ。とても痛かった。それで何度か失神してしまうほどにね」
ははは、と乾いた声が響く。
出会ったとき、アーニャは大人の男が怖いと言っていた。それだけは嘘ではないように思えた。
「両親からも、酷いことをいっぱい言われた。……なんで部屋から出てこない、……あなたが引きこもっているせいで私まで笑いものなのよ、……学校にすら行けないなんてみっともない、……お願いだから、私たちのために学校に行ってちょうだい。……ふ、ふふっ」
いつの間にか、彼女は嘲笑うような声をだしていた。
「本当に勝手な人たち。自分たちの都合しか考えていない。2人とも家にはほとんどいないくせに、私が学校に行けないことは気になっちゃうみたい。……私が、どんなことをしていたか知らないくせに」
そういって、彼女は上着のポンチョの隙間から左腕を出した。そして、肘の辺りまで肌を露出させる。
「見て、ユキ。綺麗な腕でしょ?」
「え?」
「肌荒れもないし、シミもない。夏に半袖を着ていても、全然気にならないのよ」
「……そ、そう」
私は戸惑った。
アーニャが何を言いたいのか理解できなかった。そんな私のことを察してか、彼女は穏やかな口調で説明していく。
「でもね、現実世界の私はこんなに綺麗じゃないの。傷だらけで、カサブタだらけ。肌の色も青くなっちゃって、生きている人間には見えないくらい」
「傷だらけ? それって、どういう―」
瞬間、私の脳裏にある言葉が浮かんだ。
だけど、それは。いつも明るい彼女からは想像もできないものだった。
「自分で切ったの」
「え」
「自分で手首を切っていたの。最初はカッター。その次は包丁。嫌なことがあって、どうしても耐えられない時は、そうやって自分を傷つけていた。それが私。醜い心を持った普通の女の子」




