第45話「少なくとも前の自分より、今の自分のほうが好きになっていた」
風がどんどん冷たくなっていく。
夏の名残などとうになく、耳を澄ませば冬の足音が聞こえてくる。
乾いた風の音。
少し荒くなっている波の音。
落ち葉が擦れる音。
薪を割る音がしたと思えば、遠くから暖炉を直す職人の声が耳を打つ。
そういえば、あれだけいた野良猫を見なくなった。
きっと、彼らにも冬支度があるのだろう。
そんなことを思いながら、私は買ったばかりのコートに袖を通す。
店員に進められるまま買ってしまった、淡いクリーム色のトレンチコート。
黒髪にはこれが似合うといわれたけど。
うん、たしかに悪くない。
窓ガラスに移る自分の姿を見て、満足するように頷く
私はサンマルコ広場を横切りながら、秋の風を肌で感じていく。
…乾いていて。
…冷たくて。
…切なくて、どこか無愛想。落ち葉を踏みしめては、季節の移ろいに心が揺さぶられる。
…秋が足音をたてて近づいてきていた。
「祝勝会?」
「うん! この間の魔王ナポレオンとの戦いがあったでしょ? あの侵攻を止めたことで、周辺の隣国がお祝いをしてくれるんだって!」
ヴィクトリア宮殿の会議室で、アーニャは蜂蜜色の髪を揺らして楽しそうに笑う。…ちなみに王族マナーの講義は無事終了した、…らしい。
「なんか、小国の領主や総督なんかも来るらしくってね」
「…どーじぇ?」
聞きなれない単語に、ボクは首を傾げる。
「総督っていうのはね、海洋国家の一番偉い人の総称なの。このアドリア海には、いくつもの小さな国があって、その国々に代表である総督がいるってわけ」
「ふーん、そうなんだ。そういえばアーニャの名前にもついていたっけ」
「そだね」
アーニャは機嫌が良さそうに、その蜂蜜色の髪を揺らした。アーニャの本名は、アリーシア・マリ・ドージェ・ヴィクトリア。とても長い名前だ。そんな彼女を見て、ボクはひとつの疑問を口にする。
「…で、その祝勝会があるのに、アーニャはここで油を売っていていいの?」
「はははっ、ユキ。わかってないなー」
彼女は実に嬉しそうに答える。
「皆が忙しいから、こっちは暇なの。私なんかに構っている余裕なんてないからね」
「…あっ、そう」
「ふふ~ん。内務大臣のハーメルンなんか、この3日間くらい寝てないらしいよ。いやぁ、いい気味だわ~」
「そんなこと言って。ハーメルンさんに聞こえたらどうするの?」
「大丈夫大丈夫。今の鋼鉄大臣には、無駄な言葉は届かないから」
そういった直後に、会議室の扉が厳かに開いた。
失礼します、と断りをいれて室内に入ってきた人物を見て、…言葉を失った。
顔面蒼白で血の気を失った表情。
砂色の目がいつになく開かれていて、瞬きしている様子は見られない。
そして、なにより。歩くたびにギシギシと体を軋ませているその様は、壊れかけのロボットのようだ。
「…アリーシア様。…サインを」
口数も少ない。
元々、表情が薄い人だったが、今のこの人は感情そのものが欠落しているようだった。
祭事執務を淡々とこなす書類業務の機械人形。
たしかに今のハーメルンさんには、どんな言葉も届かないだろう。
「はい、どうぞ」
さらさら、と数枚の書類にサインをしたアーニャが、涼しい顔をして手渡す。
「…」
ハーメルンさんは恭しく一礼すると、回れ右をして部屋から出て行った。
歩くたびに関節から、カシャンカシャンと音がしてきそうだった。
「…大丈夫かな」
「そうね。そろそろ油を足したほうがいいかもね」
「…アーニャ。何か恨みでもあるの?」
「恨み? ははっ、何をいっているのユキは?」
声を出して笑いながら、彼女は答えた。
「恨みなんて、そりゃもう。…数え切れないほどあるよっ!」
「…あぁ、うん。…そうだよね」
ハーメルンさんの個人授業への不満が、まだ燻っているらしい。
…なんだかんだいって、子供だなぁ。
「ユキ? 何か言った?」
「ううん、何にも。…そういえば、今日は誰も来ないね」
話題を変えようと、ボクは会議室を見渡す。
広い空間におかれた円卓に、10人がけのイス。壁際にはソファーが設置されていて、窓からはバルコニーへと行くことができる。
そんな会議室に、今はボクとアーニャしかいなかった。
「ゲンジ先輩と誠士郎先輩は、…女湯を覗いた罰として、重石をつけてアドリア海に沈めてきたから、当分は海の底にいるとして。ジンやミクは?」
「さぁ? …あっ、ジンとコトリちゃんはリアルト橋のとこで見たよ」
「リアルト橋で? 買い物かな?」
「というより、あれはデートだったね」
アーニャが窓の外を見ながら、にやにやと笑う。
「…デートかぁ」
恋人と一緒にこの国を回れたら、それはとても楽しいだろう。買い物して、ご飯食べて。一緒に服なんかも見たりしてさ。最後は夕焼けを見ながら、手を繋いじゃったりして。…はぁ、いいなぁ。
「…ユキ。今、女の子の顔になってた」
「え、うそ!?」
「ホントだって。もしかして、自分も恋人と一緒に甘い時間を過ごしたとか、考えてたんじゃないの~っ?」
「な、ないよ!」
「ははっ、顔が真っ赤だよ。ユキは乙女だなぁ~」
「だから、そんなことないって! もう、からかわないで」
ぱんっ、と自分の顔を軽く叩く。
…いけない、いけない。
自分が男だったことを忘れそうになっていた。
というか、今まで忘れていたような気がする。女の子としての自分が普通になって、男だったことに違和感を感じている。このまま過去のことなんて忘れて、普通の女の子としてこの世界で生きていくのかなぁ。
…それも、…悪くないかも。
窓ガラスに映った自分を見て、やんわりと微笑んでみる。
黒髪の少女が、以前よりも自然に笑っていた。
少なくとも前の自分より、今の自分のほうが好きになっていた。




