第5話「海の上で散歩をしよう」
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「『アクア・アルタ』って言うの。この時期に見られる特別な高潮のことでね、ヴィクトリアの夏の風物詩でもあるの」
リンゴに刺したフォークを片手に。
朝食を食べながら、アーニャが説明している。
「規模はその年によって変わるけど、だいたい建物の1階は沈んじゃうかな。どこのお店も商売にならないからって、完全に店じまいになっちゃうの」
「ふぅん。だから、あたし達も休みなの?」
「そういうこと。毎年、『アクア・アルタ』の期間は、全ての仕事は休みになるの。…『他に休んでいる奴がいるのに、オレ達だけ働いていられるか!』ってね」
「なるほど。まぁ、涼しくていいけどね」
「みんなの本音も、そこだと思うけどね。これだけ快適なんだから、働く気にならないでしょ。…って、ユキ? 聞いてる?」
「ごちそうさまっ!」
ガタン、と立ち上がる。
アーニャとミクの話を聞きながら、朝食を一気にかき込んだ。食べ終わった食器を流しに片付けて、そのままクローゼットへと向かう。
「ねぇ、アーニャ! あのワンピースって、どこにやったっけ!」
「ワンピースって、あの白いやつ?」
「そう! どこだっけ!」
「あれなら風通しするって、壁に掛けてたんじゃない?」
「あっ、そうだった!」
踵を返して、壁に吊るしてあるワンピースに飛びつく。そして、そのまま寝巻きを脱ぎ散らかしていく。
「おーい、ユキ。行儀悪いぞ」
ミクの小言なんて耳に届かない。
白のワンピースを頭からすっぽり被って袖を通す。慣れた手つきで髪をかき分けて、最後に麦わら帽子を頭に載せた。
「どう?」
ワンピースの裾を軽く掴んでポーズをとる。純白のワンピースに、日に焼けた麦わら帽子。長い黒髪はストレートに流して、風が吹くたびに優雅に舞う。
「変じゃない?」
まだ朝食を食べている2人を見ると、すぐさまアーニャが感嘆の声を上げた。
「わぁお! ユキ、すっごく可愛いよぉ!」
「…い、いいんじゃない?」
ぶっきら棒に答えているミクも、ちらちら視線をよこしながら頬を染めている。素直になれない彼女は、これが最大の褒め言葉であることを『私』は知っていた。
「ありがと。…じゃあ、行ってくるね!」
「え? ユキ、どっか行くの?」
戸惑うアーニャを見て、思わず笑みを浮かべる。
「うん、散歩っ!」
「散歩って、今の話聞いてた? 国中が海に浸かっているんだから、外になんか出られないよ。今日は一日、のんびり過ごして―」
「そんなのもったいないよ!」
アーニャの言葉を遮る。
そして、窓からの風景を見ながら口を開く。
「だって、こんなに綺麗なんだよ。家の中で、ゴロゴロなんかしてられないよ!」
高潮によって海に浸かったヴィクトリア。
その美しい景色に想いを馳せ、胸が躍る。
早朝。屋上からの景色を見たときから、『私』の中のスイッチが、カチンと入っていた。
「それじゃ、行ってきまーす。アーニャ、ミク。お留守番よろしく!」
窓辺に近寄って、靴下を脱ぐ。
素足になって、そのまま窓枠へと足を掛けた。
「ちょ、ちょっと! そこから出て行くの?」
慌てふためくアーニャ。
それに比べて、ミクは余裕の表情で見送る。
「いってらっさい。お土産よろしくね」
「うん!」
そう答えて、私は窓枠から身を躍らせた。三階の部屋から飛び降りて、海に浸かっている路地へと落ちていく。
ユキーーーっ、というアーニャの悲痛な叫びが遠ざかる中、私は小さく呟く。
「…水面を駆けろ。【アクアドライブ】」
トンッ。
小波を立てる路地に優しく着水する。
小さな波紋が立ち、波に浚われて消えた。
【アクアドライブ】
水上移動のスキルで、水路や海面を駆け抜けることができる。こっちの世界に来てから使ったことがあるので、その性能は折り紙つきだ。
「う~ん、きもちいい~」
ワンピースの裾を持ちながら、その場で足踏みする。
足の裏から伝わる小波の往来がなんとも心地よい。
ひんやりと冷たく、うっとおしい暑さなど吹き飛ばしてくれる。
気づけば、蝉の鳴き声が遠い。
聞こえてくるのは、波の音。潮風の囁き。海鳥の息づかい。
優しい時間。
心が、軽くなる。
「…じゃ~、出発進行~」
片手で裾を掴みながら、進む方向に指をさす。
そして、わずかに波立つ水面を、優雅に歩き出していくのだった。




