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第5話「海の上で散歩をしよう」


 ――◇――◇――◇――◇――◇――◇―― 


「『アクア・アルタ』って言うの。この時期に見られる特別な高潮のことでね、ヴィクトリアの夏の風物詩でもあるの」


 リンゴに刺したフォークを片手に。

 朝食を食べながら、アーニャが説明している。


「規模はその年によって変わるけど、だいたい建物の1階は沈んじゃうかな。どこのお店も商売にならないからって、完全に店じまいになっちゃうの」


「ふぅん。だから、あたし達も休みなの?」


「そういうこと。毎年、『アクア・アルタ』の期間は、全ての仕事は休みになるの。…『他に休んでいる奴がいるのに、オレ達だけ働いていられるか!』ってね」


「なるほど。まぁ、涼しくていいけどね」


「みんなの本音も、そこだと思うけどね。これだけ快適なんだから、働く気にならないでしょ。…って、ユキ? 聞いてる?」


「ごちそうさまっ!」


 ガタン、と立ち上がる。

 アーニャとミクの話を聞きながら、朝食を一気にかき込んだ。食べ終わった食器を流しに片付けて、そのままクローゼットへと向かう。


「ねぇ、アーニャ! あのワンピースって、どこにやったっけ!」


「ワンピースって、あの白いやつ?」


「そう! どこだっけ!」


「あれなら風通しするって、壁に掛けてたんじゃない?」


「あっ、そうだった!」


 踵を返して、壁に吊るしてあるワンピースに飛びつく。そして、そのまま寝巻きを脱ぎ散らかしていく。


「おーい、ユキ。行儀悪いぞ」


 ミクの小言なんて耳に届かない。

 白のワンピースを頭からすっぽり被って袖を通す。慣れた手つきで髪をかき分けて、最後に麦わら帽子を頭に載せた。


「どう?」


 ワンピースの裾を軽く掴んでポーズをとる。純白のワンピースに、日に焼けた麦わら帽子。長い黒髪はストレートに流して、風が吹くたびに優雅に舞う。


「変じゃない?」


 まだ朝食を食べている2人を見ると、すぐさまアーニャが感嘆の声を上げた。


「わぁお! ユキ、すっごく可愛いよぉ!」


「…い、いいんじゃない?」


 ぶっきら棒に答えているミクも、ちらちら視線をよこしながら頬を染めている。素直になれない彼女は、これが最大の褒め言葉であることを『』は知っていた。


「ありがと。…じゃあ、行ってくるね!」


「え? ユキ、どっか行くの?」


 戸惑うアーニャを見て、思わず笑みを浮かべる。


「うん、散歩っ!」


「散歩って、今の話聞いてた? 国中が海に浸かっているんだから、外になんか出られないよ。今日は一日、のんびり過ごして―」


「そんなのもったいないよ!」


 アーニャの言葉を遮る。

 そして、窓からの風景を見ながら口を開く。


「だって、こんなに綺麗なんだよ。家の中で、ゴロゴロなんかしてられないよ!」


 高潮によって海に浸かったヴィクトリア。

 その美しい景色に想いを馳せ、胸が躍る。

 早朝。屋上からの景色を見たときから、『私』の中のスイッチが、カチンと入っていた。


「それじゃ、行ってきまーす。アーニャ、ミク。お留守番よろしく!」


 窓辺に近寄って、靴下を脱ぐ。

 素足になって、そのまま窓枠へと足を掛けた。


「ちょ、ちょっと! そこから出て行くの?」


 慌てふためくアーニャ。

 それに比べて、ミクは余裕の表情で見送る。


「いってらっさい。お土産よろしくね」


「うん!」


 そう答えて、私は窓枠から身を躍らせた。三階の部屋から飛び降りて、海に浸かっている路地へと落ちていく。

 ユキーーーっ、というアーニャの悲痛な叫びが遠ざかる中、私は小さく呟く。


「…水面みなもを駆けろ。【アクアドライブ】」


 トンッ。

 小波を立てる路地に優しく着水する。

 小さな波紋が立ち、波に浚われて消えた。


【アクアドライブ】

 水上移動のスキルで、水路や海面を駆け抜けることができる。こっちの世界に来てから使ったことがあるので、その性能は折り紙つきだ。


「う~ん、きもちいい~」


 ワンピースの裾を持ちながら、その場で足踏みする。

 足の裏から伝わる小波さざなみの往来がなんとも心地よい。


 ひんやりと冷たく、うっとおしい暑さなど吹き飛ばしてくれる。

 気づけば、蝉の鳴き声が遠い。

 聞こえてくるのは、波の音。潮風の囁き。海鳥の息づかい。

 優しい時間。

 心が、軽くなる。


「…じゃ~、出発進行~」


 片手で裾を掴みながら、進む方向に指をさす。

 そして、わずかに波立つ水面を、優雅に歩き出していくのだった。



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