第46話「何があっても、お前だけには絶対に言えない!」
大運河の畔。
リアルト橋を渡りきった場所のすぐ近く。早朝に、魚市場が開かれている小さな広場で。
ユキは、…立ち上がっていた。
「…はぁ、はぁ」
視界はぼやけていて、夜の暗闇も相成って周囲に何があるのかよくわからない。
右腕が痛い。
骨にヒビでもいったのか、耐える事のない苦痛が襲い掛かる。
口の中が気持ち悪い。
血と、砂と、込み上げてくる胃液でわけがわからなくなっている。
右手は、…使い物になりそうにない。
あきらかにおかしな方向に曲がっていて、力を入れても動く気配がない。神経までイカれてしまったのか、痛みすら感じない。
「…はぁ、はぁ。…うぅ」
震える膝を叱咤しながら、黒髪の少女は立ち上がる。
今にも崩れ落ちそうなほどガクガクになりながら、それでも決して膝を折ることはしない。
「…」
長い沈黙。
それが一瞬なのか、それとも数分なのか。
そんなことすらわからない。
それでもユキは、黙って彼女を見据える。
「…なんで、立つんだよ」
その声は、少し離れた場所から聞こえてきた。
苛立ち、そして戸惑っているミクの声だった。
「なぁ、なんで立つんだよ。そんなになるまでボコられても、まだあたしに勝てると思ってるのか?」
声の主は赤い髪を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
「…」
そっと、視線を上げる。
霞む視界に見えるミクの姿。
表情まではわからないが、口調だけで彼女がどんな顔をしているのか想像できる。
それくらい、私達は同じ時間を過ごしてきたのだ。
「これ以上やると本当に死ぬぞ。その左手だって、もう紫色にはれて―」
「…っ」
その初動は、とても緩やかだった。
私は彼女の言葉などに耳を貸さず、静かに間合いを計っていた。
そして、ミクがその距離を踏み出した瞬間。
私は地面を力強く蹴った。
「っう!」
突進。
私の疾走は、まさにそれだった。
わき目もふらず、回避することなど毛頭になく、ただ最短距離を駆け抜ける。
「ちっ!」
舌打ちしたは、ミクだった。
私の行動を見て、すぐさま迎撃体制をとる。
両腕を身体の前に構え、腰をわずかに屈める。
…だが、それでは遅い。
「んあっ!」
ミクが拳を構える、その瞬きほどの時間に。
風を斬るような上段蹴りが、彼女の首筋にめり込んでいた。
「ぐうっ!」
思わぬ襲撃に、ミクは体制を崩す。
前傾姿勢だったのが、さらに地面へと傾いていく。
「んあああああああっ!」
私は右足に力を込める。
ミクの首筋からミシミシと嫌な音がするが、そんなこと関係なく、勢いのまま蹴りぬいた。
ズドンッ!
ミクの頭部は石畳に激突し、凄まじい地響きを立てた。
舞い上がる砂埃。
飛び散る石畳の破片。
右足がズキズキと痛むのに耐えながら、私は大声で叫んだ。
「バカじゃないっ!」
しんと静まる夜のヴィクトリアに、その声はどこまでも響く。
「泣くほど辛いくせに、独りで抱え込んで! そんなに苦しいなら、誰かに助けを求めればよかったんだよ!」
その声色は少女というより、子供に近かった。
いつもの凛とした雰囲気などまるでなく、駄々をこねる子供のように大声を上げる。
「バカ! ミクのバカバカバカ!」
「…うるせぇ」
地に響くような声が聞こえた。
石畳に沈んでいたミクが、ゆっくりと顔を上げる。
「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ!」
苛立ちをぶつけるかのように、拳を地面につきたてる。
それだけで地面は砕け、わずかに石畳が割れていく。
「うるせぇんだよぉぉぉっ!」
赤髪の少女は立ち上がった。
地面の破片を撒き散らしながら、怒声を轟かす。
「テメェに何がわかるんだよぉっ!」
瞬間、ミクが疾走する。
地面を蹴りだしたかと思ったら、すぐ目の前に拳を突きたてられる。
ユキの脳裏によぎる、強い既視感。
2年前。
中学の屋上。
一歩的な暴力に何もできず、意識を失うまで殴られた惨めな自分。
逃げることもできない、まるで獣のような猛襲。
「っ!」
…だが。
…2年前とは、違う。
「わかるわけ、ないよ!」
目の前にまで迫った拳に対し、ユキは身を翻しながら上段蹴りを放つ。
拳と蹴り。
その2つが衝突し、わずかにミクが後ろに飛ばされる。
ミクの剛拳を、ユキが打ち負かしていた。
「わかるわけないよ! ちゃんと言葉にしてもらわないと、ミクの気持ちなんてわかりっこないよ! そんなに知ってもらいたかったらね、自分の口で言いなさい!」
…あの時とは違う。
…今のユキには、確固たる意志がある。
…傷ついても、どんなに傷ついても。手を伸ばし続ける。その強さがある。
「そんなみっともない真似、できるわけないだろうが!」
ミクが拳を振るう。
「それができりゃ、誰だって苦労はしないんだよ! 人間、結局のところ誰だって独りだ! 自分のことは自分でなんとかしなきゃいけねんだよ!」
高速の上段突き。
風を斬るような拳を前に、ユキは片手で軽くいなす。
「なんでもかんでも、1人で解決できるわけないでしょう! 助けを求めることもできず、ウジウジと1人で悩んでいるほうが、よっぽど惨めよ!」
ミクの拳を受け流しながら、素早くその手首を掴む。
そのまま勢いを殺さず、ミクの懐に潜り込み、膝蹴りのカウンターを放つ。
「なんで私達に言ってくれなかったのよ! 背中の怪我だって、陸上のことだって、中学の頃のことだって。ミクが話してくれないと、どれだけ苦しんでいるかわからないじゃない!」
「言えるわけないだろ! 何があっても、お前だけには絶対に言えないんだよ!」
「じゃあ、この世界に来たときに言えばよかったじゃない! ミクの好きだった男の私は、もういない! その苛立ちを素直に話してくれればよかったのに!」
ユキの膝蹴りはミクの溝内へと吸い込まれる。
だが、それよりも早く。ミクの高速の脚払いがユキに襲い掛かる。
「だから! そんなんだから! あたしは言い出せなかったのよ!」
体制を崩され、カウンターは不発に終わる。
その隙を待っていたかのように、今度はミクが轟音を立てる正拳突きせを繰り出す。ユキの右手を捻じ曲げた、あの突きだ。
「あんたが女になったせいで、余計に言い辛くなったんだよ! この鈍感! ウスラトンカチ!」
「はぁ!? 何言っているのか、全然わからないよ!」
迫りくる拳に、ユキはわずかに姿勢を後ろに反らす。
そして、疾風のような上段蹴りで迎撃する。




