第43話「…ここで逃げたら、ずっと他人のままだ」
「がっ! ぐはっ!」
何が起きたのか。
私は、自分に起きたことが正しく理解できずにいた。ミクの拳すら、視認できなかった。
一撃。
たった、一撃で。
私の体は、もう動かなくなっていた。
右腕は辛うじて原型を留めているが、左腕はあらぬ方向に向いてしまっている。
感覚どころか、痛みすら感じない。頭を打ったのか、体を起こすことができない。口の中に溜まった血が、だらだらと口端から零れている。
「…っ!」
やがて、目の焦点が合ってくる。
夜のヴィクトリア。大運河のほとり。私はリアルト橋の大理石の礎に叩きつけられるような格好で倒れていた。
先ほどまでいた場所から、どれくらい離れているのだろうか。
私は激しい吐き気に襲われながら、何とか体を起こそうとする。
だが、手や足に力は入らず、無様に視線だけ上に向ける。
「…おら、早く起きやがれ」
そこにいる人物に、全身が恐怖に震える。
気だるそうにしたミクが、すぐ傍で私のことを見下ろしていた。
バサリと羽織っていた振袖を脱ぎ捨てて、拳を鳴らす。
先ほどまでと、全く逆の光景だ。
「…喧嘩すんだろ。早く立てよ」
氷のように冷たい視線。
正直、怖かった。
こんな人と喧嘩して勝てるわけがない。
頭の中では、逃げ出す言い訳ばかり考え始めている。どうしたら、これ以上痛い目に合わずに済むのか。謝ったら許してくれるのか。そんな、みっともないことばかり頭に浮かぶ。
…情けない。
私は唇を噛み締めると、言うことを聞かない体を無理やり動かした。
「…いま、…起きるところだって」
奥歯を噛み締めて、こみ上げてくる痛みに耐える。
膝がガクガク震え、地面に足をつけている感触がない。
それでも、私は立ち上がる。
…喧嘩を始めたのは、私だ。
…だったら、どんな結末になっても、逃げ出すことは許されない。
「はぁ、はぁ」
「なんだ? もう、フラフラじゃねぇか。早く降参したほうが身のためだぜ」
「…は、ははっ。…何を言っているの? こんなの、全然、…余裕だって」
なけなしの度胸を掻き集め、空元気で虚勢を張る。
…逃げたくない。
…ここで逃げたら、ずっとミクとは他人のままだ。
…そんなの、死んでも嫌だ!
「そっか。それじゃ、…安心して死ねや!」
ミクが中学時代の口調で言い放つ。
それと同時に、再び私の体が爆ぜた。
「ぐぁあっ!」
ミクの一撃と共に、倉庫の壁へと叩きつけられる。レンガ造りの壁が激しく揺れて、粉々に砕ける。
足に力が入らず、地面に膝を着き、顔面から地面に倒れた。
口の中が血と砂利でぐちゃぐちゃになり、痛み以外は何も感じない。
「おらっ。まだ、終わってねーぞ!」
がしっ、と私の襟首を持ち上げられて。
そのまま、大運河へと放り投げられた。
「ぐっ!」
そして、水平に飛ばされて、水面に激突する。
全身の骨が軋み、肋骨が砕ける音が体の中から響いた。
そのまま大運河の底に沈んでいく、…ことはなかった。
まるで水切りのように水面に弾かれ、大運河の対岸の壁へと激突。
全身を打ち付けて、腹の底からこみ上げてきた大量の血を吐きだした。
「がふっ! ごぼっ!」
口の中に溜まった血を吐き終わると、私は糸が切れた人形のように、壁伝いにずるずると滑り落ちた。
右目はもう見えない。
腫れあがった左の瞼から、あたりの景色を見渡す。
真っ白なリアルト橋を、ゆっくりとした足取りで近づいてくる赤髪の少女。
もう、恐怖すら沸いてこない。
痛みも感じない。
それでも。
たった1つの望みのため、私は立ち上がる。
「…は、はぁ、はぁ」
飛びそうになる意識を必死で掴み、力の入らない足に鞭を打つ。
頭ばっかり熱くなり、体はどんどん冷たくなっていく。
それでも、血溜まりの地面を踏みしめて、私は立ち上がる。
「…はぁはぁはぁ」
「…随分と辛そうじゃねぇか。降参しねぇと、本当に死ぬぞ?」
いつの間には傍に来ていたミクに声をかけられる。
私はかすんでよく見えない目で、彼女のいるほうへ視線を送る。
「…まだ。…まだ、倒れるわけには、いかない」
「ははっ。いい根性してるじゃねーか」
ぐいっ、と胸座を掴まれる。
そして、そのまま住宅の壁に叩きつけられた。
「ぶっ!」
まともに受身すらとることができない。
顔面にレンガの硬い感触を感じながら、膝から地面に落ちていく。
「おらっ! まだ、終わりじゃーぞ!」
何度も、何度も、壁に叩きつけられる。
その度に、頭の中で火花が散り、流血で視界が真っ赤に染まっていく。
「おらっ! 」
ふいに、世界が反転する。
襟首を持たれたまま、背負い投げのように落とされていた。ズトンッ、と地響きがなり、割れた石畳が宙を舞う。割れんばかりの頭痛と吐き気がして、意識が途絶えそうになる。
だが、それでも終わらない。
「これで、シメーだ」
首を直接つかまれ、無理やりにも起こされる。
霞む視界。
淀んでいる意識。
体には力が入らず、指先する動かすことができない。
「もう寝てろ。二度と起き上がってくるんじゃねぇ…」
迫り来る拳。
その勢いのまま頬を抉り、私の体は。
糸の切れた人形のように吹き飛んでいった。




