第39話「人形使いのミクが、橋の上からボクを見下ろしていた」
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
西の海に、日が沈む。
陽だまりのような暖かい蜜柑色が、海いっぱいに広がっている。
ゆらり、ゆらりと、小さな波音が立ち。
静かに一日を終えようとしている。
…今日の死闘が嘘だったように。
「すみません、サンマルコ広場までお願いします」
ボクは舟乗りに銀貨を渡しながら、停留させていた小舟に乗り込んだ。
ヴィクトリアの西側。
ここは銀行など、様々な社会的組織『組合』が集まっている場所だ。ボクが顔を出していたは漁業組合。この国の漁業産業の元締めである。本日、ボクたち『十人委員会』のよって撃退したクラーケン、そして討伐したリヴァイアサンについて報告してきたのだ。討伐できなかったクラーケンに対して、当分は心配ないことを説明すると、漁業組合の屈強な男達も安堵の表情を浮かべた。念のため、コトリには定期的な見回りをお願いしておこう。
リヴァイアサンとの激闘で、体は疲労を訴えていたが、まだ休むわけにはいかない。
ボク以外の『十人委員会』のメンバーも、それぞれ後処理に追われている。警備隊の隊長であるゲンジ先輩は被害状況の確認。代表補佐の誠士郎先輩は、内務大臣ハーメルンさんと一緒に今後の対策を練っているはずだ。そんな中、ボクだけが休むわけにはいかない。
「…静かだ」
ボクを載せた舟は、細い水路を縫うように進んでいく。オールを持つ舟乗りの女性を見ると、にこりと笑みを返される。多くは語らなかったが、この国を守ってくれたことに深く感謝された。そうして、ようやく自分がこの国を守ったのだと自覚することができた。
やがて舟は水路を抜けて大運河に差し掛かる。このヴィクトリアの中心を流れる『S』字の大きな運河。昼間では無数の舟が行きかうこのメインストリートも、今だけは静かに佇んでいる。
西日が少しずつ、明るさを失っていく。
優しい蜜柑色だったのが、赤みを増して見ている人を不安にさせていく。
…いつかの、学校の屋上で見た夕陽と同じ色だった。
「サンマルコ広場ですよ、お客様」
舟乗りの女性は、小舟を停留所につけると、手を添えて岸へと送り出す。
「ありがとうございました」
女性はオールを両手に持って、丁寧に頭を下げる。
舟乗りに見送られながら、ボクは体を引きずるように広場のほうに歩いていった。
「よぉ、ユキ。お疲れだな」
「あ、ジン」
広場の正面にある大聖堂。その荘厳な造りの玄関の前で、ジンが手を上げている。隣には、当然というようにコトリが付き添っている。
「大変だよな。あの激戦の後なのに、組合に顔を出さないといけないなんて」
「いや、ボクは楽なほうだよ。大変なのは、ゲンジ先輩や誠士郎先輩だよ。まだ、戻ってきてないんでしょ?」
「あぁ。姫さんと一緒に、リヴァイアサンの亡骸を弔うっていうんで、遠洋についていっちまった」
海龍王リヴァイアサン。
モンスターとはいえ、彼の者は王である。
高貴なる者には相応の礼節を持つべし、というのがヴィクトリアの慣わし。アーニャたち、この国の重鎮たちは揃って遠洋に駆りだして、海の王の供養を行っている。
「まぁ、それが終われば一段落だな。見てみろよ。気が早い奴なんか、もう宴の準備をしてるぜ」
ジンが顎をしゃくった先には、広場の端から次々にテーブルを並んでいくカフェの店員の姿があった。
「皆、騒ぎたくてウズウズしてんだろうな。戒厳令が解かれるまで、部屋でじっとしてないといけないし」
「アーニャたちが帰ってきたら、戒厳令が解かれるんだよね?」
「そうだ。そうなったら、国中が大宴会になるぞ」
一時は国の存亡が危ぶまれたのだ。その反動は計り知れない。
「どうせ、今晩は夜明けまで馬鹿騒ぎで眠れないんだ。今のうちに休んでおいたほうがいいぞ」
大きなあくびを漏らすコトリに、ジンがそっと手を添える。すると、あっという間にコトリは寝息を立て始めた。
「…コトリも疲れてたんだね」
「…そうだな。召喚魔法は気力を使うって、コトリも言ってたしな」
小さく丸くなって眠る彼女を見て、ボクたちは自然と笑みがこぼれた。
「…じゃ、ボクは行くね」
「おう? まだ何かやることがあんのか?」
「うん。ちょっと野暮用がね」
そう言い残して、ボクはジンたちに別れを告げた。
そのまま広場を横切って、狭い路地に入っていく。
人が、ひとりもいない。
路地を吹き抜ける夜風が、なんとも心地いい。
そっと耳を澄ませると、壁越しに色んな音が聞こえてくる。
忙しく料理をする音。
酒樽を転がす音。
ワイングラスの甲高い音が鳴り、ヒソヒソと談笑する声も少なくない。
…まるで、お祭りの前夜だ。
今日の不安や恐怖を、喜びと笑いに変える大きなお祭り。今か今かと、待ちきれないこの空気は、祭りの前日と同じ雰囲気だ。確かにこれは、朝まで国中が宴会場になりそうだ。
そんな浮き足立った空気を肌で感じながら、ボクはまっすく路地を歩く。
陽はもう沈んでしまったのだろうか。
薄暗い迷路のような路地を前にして、少しだけ歩みを躊躇させてしまう。だけど、建物から零れる笑い声で、そんな不安なんて消えてしまった。細い路地を進み、水路を跨ぐ橋を何度も渡る。足元を照らすのは、建物から零れる明かりだけ。月も、街灯もない。
やがて、視界は開ける。
目の前に広がるのは、雄大な運河の流れ。
この国のメインストリートである『大運河』だ。ヴィクトリアの真ん中を流れるこの大運河には、たった1つの橋しか存在しない。昼間には人通りが絶えることのない、大理石の石橋。アーチ上に作られた橋の上には、魔法石商店や、ガラス細工店などの店舗が並んでいる。ボクにとっても、この世界に来てアーニャが最初に案内してくれた場所として馴染み深いところだ。
それが『リアルト橋』である。
この国の商業の中心であり、もっとも人通りが盛んな場所。
ゲームだった《カナル・グランデ》でも、シンボルマークとしても使われていた。
そして何より、彼女が一番好きな場所だ。毎朝のランニングに、この場所を通ることを。ボクは人伝いに聞いていた。
「…やっぱり、ここにいたんだ」
リアルト橋の石段を一歩ずつ登っている。石造りの欄干に手を添えて、視界の先の彼女を見つめる。
赤髪のショートヘアー。
その色と同じ、炎のような真っ赤な瞳。Tシャツとジーンズに振袖を羽織るという、ヴィクトリアの世界観に馴染まない服装。
…人形使いのミクが、橋の上からボクを見下ろしていた。




