72 心配性の兄と楽天家の弟
アレクサンドルが王城に出向き、「フローラがエドワード殿下に婚約を求められ、了承しました」と報告した。
それを聞いたグリード国王は嬉しそうな顔になった。
「そうか。よかった。このまま待たせていれば、他の令嬢と婚約されてしまうと気を揉んでいたんだ。これはめでたい。ホッとしたよ。アレクサンドル、いい報告をありがとう。さっそく重鎮たちにも知らせよう。ホランドにも親書を送らねば」
明るい顔で喜ぶ兄に向かって、 アレクサンドルは常になく畏まってお辞儀をした。部屋を出てから通路の天井を見上げて「ふうぅ」とため息をひとつ。
「王弟の娘が隣国の王太子に嫁ぐ。喜ばしい話だ。めでたい話だ。うん、そのとおり」
アレクサンドルの顔は、言葉と裏腹に寂しげだ。十一歳でマリアンヌに出会い、一方的に興味を持って、追いかけて、大好きになって今日を迎えた。こういう日がいつか来ることは、マリアンヌと婚約した時からわかっていた。だが、できればフローラは国内の有力な貴族に嫁いでくれたら、と願っていた。
「いや、フローラのために喜んでやろう。好き合った二人が結ばれるなんて、立場を考えたら奇跡みたいな話だ。それにホランドは今や、各国と交易をしている裕福な国だ。昔とは違う」
潤みそうになる目にキッと力を入れて、アレクサンドルは歩き出した。ニコラスが計画し、ハロルドが申請した国立の医療学校創設計画は、猛烈な勢いで動き出している。娘を手放す寂しさに萎れている場合ではなかった。二人の息子たちから各種の要請が来る。ロマーン公爵家当主としてやらねばならないことは山のようにあった。
◇
フローラとニコラスがロマーン国の城に到着した頃、ホランド王国ではエドワード第一王子が、国王の部屋を訪問した。国王は腰痛が酷いのだろう、立ったまま書類に目を通していた。そのための高い机が作られたのは少し前のことだ。
エドワードはその姿を見るたびに父の腰痛の酷さを想像して、胸が痛む。
「失礼します。父上にお話ししておきたいことがございます」
「どうした」
「フローラ公爵令嬢に婚約を申し込み、了承してもらいました」
「なっ! お前、そのような重要なことをなぜ今まで黙っていた! その日のうちに報告すべきだろう!」
国王クリストフが目を吊り上げて本気で怒った。エドワードはこうなることを承知で今まで黙っていた。日数を計算して、ロマーン国王からの親書が近々届くと計算して報告したのだ。
「ロマーン公爵は十五歳まで婚約を急がせないと明言していました。今まで黙っていたのは……フローラは『はい』と言ってくれても、公爵夫妻がどう判断するかわからなかったからです。僕の婚約の申し込みに対する返事が、そろそろ送られてくる頃なのでご報告申し上げました」
「断られることはない。我が国はもう、昔の貧しい国とは違うのだ」
「そうですね」
エドワードは豊かになった国しか知らないが、国王はまだ貧しさの片鱗が残っている時代を知っている。祖父が国を治めていた頃は、まだしっかりと貧しかったのを文書で知っている。
「この国を豊かな国へと導いてくれた、麦穂の一族を王太子妃に迎え入れる。そんな日が本当に来るのだな。実に感慨深い」
「貧しさゆえに我が国が豊かなロマーン王国に侵攻して、こてんぱんに負けてから百年以上ですね」
「そうだ。敗戦をきっかけに王家が替わり、今に至る。あのロマーン王国に戦争を仕掛けるなんて、どうかしている。軍人の腹さえ満たせない貧しい国だったのに、なぜあの豊かな国を攻め落とせると思ったのやら。よくよく切羽詰まったのだろうなあ。何はともあれ、おめでとう、エドワード。よかったな」
「ありがとうございます」
父の執務室を出て、今度は弟の部屋へ向かう。弟は今、領地経営について専門家から講義を受けているところだ。そろそろ終わる頃だなと思っていると、弟のフィリップが部屋から出てきた。
「兄さん! 今、時間はありますか?」
「少しならあるよ。どうした?」
「今日の講義がとても面白くてですね」
エドワードが微笑んだ。この弟は自分と違ってまっすぐな性格だ。自分がちょっかいを出しても、ちょっと意地悪してからかっても、いつでも「兄さん!」と目を輝かして駆け寄ってくる。最近はそんな弟が可愛くて仕方ない。
エドワードは思春期を終えるところで、精神的には大人世界の一員になりかけている。
二人で王家の居間に入り、エドワードが使用人を下がらせた。
「フィリップも学んだだろうが、我が国は遠い昔にロマーン王国に侵攻したことがあるだろう?」
「教わりましたよ。国境を越えてすぐのところで負けたんでしょう? 僕にその話をしてくれた学者は『よくぞロマーンの属国にならずに済んだ』と言っていました」
「そうだね。ロマーンは属国にする価値がないと判断したんだろう。属国にすれば我が国の民をずっと監視しなければならないし、民が飢えればロマーンの小麦を与える義務が出る」
「見放されたんですねえ。でも我が国はもう、餓死者凍死者が出なくなりました。豊かな時代の王族に生まれて助かりました!」
「あっはっは。お前は陽気でいいなあ」
フィリップは大好きな兄に笑われて、悔しいような嬉しいような顔をしている。
「石炭、鉄鉱石、銅鉱石は我が国の生命線だ。鉱夫たちを守り、輸送に携わるものを守り、この国の民を飢えさせないようにしないとな」
「兄さん? 急にどうしたの?」
「まだはっきりしないが、フローラと婚約できそうなんだ」
「そうなの? おめでとうございます! わあ、嬉しい。あの人がお姉様になるんですね」
「ありがとう」
微笑んでそう応じたエドワードが立ち上がり、窓の外を眺める。
「こうなってから急に心配事が増えた。フローラをこの城に迎えてから僕に何かあれば、フローラは一人になる。お前が国王になり、フローラは居場所を失う。もしそんな事態になったら、お前がフローラをロマーンに帰してやってほしい」
「は? いったい何を……。どこか具合が悪いのですか?」
「いや。すごぶる健康だ。だけど伝えられるうちに伝えておきたいんだ。書面にして渡しておくから、その際はそれを示してフローラを自由にしてやってくれ。周囲に大反対されるだろうが、頼む」
「ゲイルのことがあったからですか?」
ゲイルとはこの国の侯爵で、酔った状態で自宅の階段から転がり落ち、数日後に亡くなった男だ。まだ三十九歳だった。
「僕に子が生まれていたら、どうかその子が成人するまで見守ってやってほしい。僕の子を気にかけてやってほしいんだ」
「兄さん……。そんな縁起の悪い話なんて聞きたくないです。でも、僕がそのお願いを引き受けて兄さんが楽になるなら、全部お引き受けします」
「ありがとう。頼むよ」
十四歳のフィリップは、兄がまだ起きてもいない遠い未来の不幸まで心配していることがわからない。
「おかしなことを言うと思うだろうね。でもお前もいつかわかる。大切なものを手に入れるということは、それを失う恐怖も一緒に手に入れるということなんだ。僕は心配性だし、なんでもきちんとしておきたい。フローラが婚約の申し込みに『はい』と言ってくれた瞬間から、喜びと不安でずっと心が落ち着かないよ」
苦笑している兄を見て、フィリップは(兄さんは『幸せだ!』って手放しで喜ぶことができない性格だからな)と思う。
「兄さん、すべて承知しました。お任せください。だから今からは、幸せなことだけ考えてください」
「ありがとう。お前がいてくれてよかった。今、しみじみそう思っている。感謝しているよ、フィリップ」
フィリップは(僕はずっと、兄さんがいてくれてよかったと思ってきたけどね!)と思いつつ、「どういたしまして」とだけ応じた。





