64 マリアンヌのティーポット
女性はミランダと名乗った。
「母はエリーと申します。公爵夫人がご結婚されるまでの間、お仕えしておりました」
「エリー! 覚えています。控え目で物静かな……あっ」
「はい、ティーポットの侍女でございます。母は繰り返し私に『マリアンヌ様はお優しい方だ』と話をしてくれました。母はもう神の庭に旅立ちましたが、我が家に感謝会の招待状が届きました。家族の参加も歓迎されると書いてありましたので、勇気を出してこちらに参りました」
「そう、エリーはもう……」
「七十歳まであと半年でしたので、歳に不足はございません」
エリーのことはよく覚えていた。
それはマリアンヌが十六歳と数か月の頃のこと。当時の王妃の希望で、マリアンヌは結婚までの数か月間をお城で暮らした。
実家の母親に持たされた古いティーポットは、マリアンヌのお気に入りだった。それは母が嫁ぐときに持たされたティーポットで、くすんだピンクの地に綿毛になったタンポポと風に飛ばされるタンポポの種が描かれていた。
マリアンヌは幼い頃から、そのタンポポの綿毛が行きつく先を想像するのが好きだった。
ある日、藤棚の下にあるテーブルで、マリアンヌとアレクサンドルがお茶を飲もうということになった。
エリーはマリアンヌ付きの侍女として配置され、身の回りの世話をしていた。そのエリーがティーポットを持ち上げてお茶をカップに注ごうとしたら、持ち手が突然取れた。古いティーポットにはおそらく、ヒビが入っていたのだ。
ポットは落下し、熱湯がエリーの右足の甲と足首にかかった。
「申し訳ございませんっ!」
青ざめた顔で謝りながら、エリーがティーポットの破片を集めようとした。するといつもはニコニコしているマリアンヌが怖い顔になった。
「破片なんて拾わなくていいから! 早く冷やさなくては!」
そう言ってマリアンヌはアレクサンドルに指示を出し、エリーを抱きかかえさせると井戸に向かって走った。
エリーは小さく悲鳴を上げた。なにしろ王子に抱きかかえられて走って運ばれているのだ。エリーは何が何だかわからない。
一番近い厩舎脇の井戸に着くと、マリアンヌは井戸から水を汲んでザバザバと靴下の上から井戸水をかける。
「アレクサンドル様、どんどん水を汲んでかけてください! とにかく冷やさないと!」
「わ、わかった!」
厩舎にある桶をひっくり返した上に座らされ、エリーは足に水をかけられ続けた。
何事かと人が集まり、呼びに行く人がいて医者もやってきた。医者は走っているつもりの早歩きで近寄ってきて声をかけた。
「なにごとですかな、アレクサンドル様」
「侍女が火傷をしたんだよ」
「なるほど。ちょっと失礼」
「待ってください。靴下を脱がさないで。水ぶくれができていたら皮膚がもっていかれてしまうわ」
「マリアンヌ様、私ならもう大丈夫ですので」
申し訳なさと人が集まった恥ずかしさでエリーがそう言うと、初めてマリアンヌが怒った。
「皮膚はお城で言えば石塀です。皮膚が剥がれるということは、お城の守りが失われるってことよ。ちっとも大丈夫じゃないわ」
延々と水をかけられた後、再びマリアンヌの指示でアレクサンドルがエリーを抱きかかえた。おまけにマリアンヌが水の入った桶を捧げ持って移動する。エリーは桶の水に足を漬けたまま医務室に運ばれた。
医者がハサミでエリーの靴下を切ると、エリーの右足は真っ赤になっているものの水ぶくれはできていない。医者はエリーの足に軟膏を塗り、包帯を巻いた。
「母はそのときの話を何度も何度も私たちにしてくれました。笑いながら話し始めるのに、最後は必ず泣いてしまうんです。『ありがたかった。マリアンヌ様は私たち使用人のことを一人の人間として心配してくれるお方なの』と言って笑い泣きするのです。マリアンヌ様、母がお世話になりました。火傷で皮膚が剥がれてから高熱を出して亡くなる人もいます。母はマリアンヌ様に命を救われました。母が命を救われたおかげで、我が家は平穏なまま過ごすことができました」
途中から涙ぐんでいたミランダはハンカチで涙を抑えつつ頭を下げた。
「そんな。当然のことをしたまでなのに。そんなに感謝されると、恥ずかしいわ」
「マリアンヌ様にお渡ししたいものがございます」
ミランダはそう言うと、会場の隅のテーブルに置いてあった木箱を抱えて戻った。マリアンヌが箱を開けると、木箱の中にはおがくずに守られてティーポットが納められている。くすんだピンクの地に綿毛のタンポポが描かれたティーポットだ。
「まあ! あのときのティーポットにそっくりだわ。これは?」
「私の息子が絵付けをいたしました。息子は陶器職人なのでございます」
マリアンヌがミランダからティーポットを受け取り、涙で潤んだ目を向けて礼を述べた。
「ありがとう。エリーにも、あなたにも、あなたの息子さんにも、心から感謝します」
マリアンヌがそう言うとミランダは、「親子三代の感謝の気持ちでございます」と言って晴れ晴れと笑った。





