58 始まる前に終わった話
マリアンヌ一家は実家に一泊することになり、母のフローレンスが「もう少しステラと遊べるわね」と大喜びした。
その夜はマリアンヌの希望で彼女は母と一緒に眠ることになった。
「あなたが一緒に寝たいなんて言うのは珍しいわね」
「私だって子供に戻って甘えたいときはあります」
「大歓迎よ。ステラも一緒に三人で寝ましょうよ」
というフローレンスの希望で、二人の間にはステラが眠っている。
貴族は自分で子育てをしないのが普通だが、貧しい男爵家育ちのフローレンスが自分でマリアンヌを育てたのもあって、マリアンヌもレイラと共同で子供たちと触れ合って育ててきた。
フローレンスはマリアンヌとあれこれ子供時代の話をしている途中で、父の言葉を思い出した。
「あなたのおじい様は、子供時代のあなたのことを心配していたわ」
「どんな心配をしていたんですか?」
「そのときの言葉は一言半句も忘れていないわ、おじいさまはこう仰ったの」
マリアンヌはその祖父の言葉をやんわりと聞いたことがあるものの、正確な言葉は初めて聞いた。
『あれは普通の子のように育てたら潰してしまう。突拍子もないことをやり出すだろうし、訳の分からないことを言ってくるだろう。でもそれを笑うな。聞き流すな。危険ではない限りあの子がやりたいことをやらせてやれ。そしてあの子は他の女の子たちと関わるようになればきっと叩かれる。その分、あの子を認めて励ましてやる親になれ。安らぐ家にしてやれ。あの子と一緒になって叩かれる覚悟を持て』
それを聞いたマリアンヌが口をへの字にして泣くのを耐えた。
「だからお母様は私がやりたいと言ったことは全部やらせてくれたんですね。私がたくさんの発明をしてこれたのは、おじいさまやお母さまのそういう配慮があったからだったんだわ。自分が母親になって、それがどれだけ大変なことか、よくわかります」
「大変じゃなかったわ。あなたの歩む先を楽しみにしていたもの。でもね、もう無理はしないでね。ステラの人生はこれからだわ。どうか体に気をつけてちょうだい」
「もう無理はしません。上の三人の子たちには寂しい思いをさせました。この子にはあんな思いはさせたくないの」
ぷっくりと肉付きのいいステラの腕を撫でながら、マリアンヌが約束した。
アレクサンドルとハロルドは公務があったため、一家は翌朝の朝食を終えて出発することになっている。
総勢八人の朝食は賑やかで楽しい時間だった。
帰りの馬車は二台に分かれて乗り込み、マリアンヌとステラとレイア、ハロルドが同じ馬車だ。
「楽しかったわね」
「はい。楽しかったです。久々に子供に戻ったような気持ちになりました。でも、おじいさまとおばあさまが少し見ないうちにだいぶ白髪が増えていたので驚きました」
「そうね、お父様もお母様も六十を過ぎてから、急にね」
「僕もできるだけ行くようにしますが、お母様はステラを連れていって顔を見せてあげてください」
ハロルドの言いたいことに気づいて、マリアンヌは「そうね。そうするわ」とうなずいた。
「おじいさまとおばあさまは、あなたの婚約式を楽しみにしているの」
「ええ。婚約式が終わったら、エミリアと二人でもう一度ランドフーリア家に顔を出してきます」
ハロルドはすっかり大人になっていた。
我が子が次期国王になるのは、いまだに実感がわかない。だがハロルドならきっと善き国王になると思っている。それを心配したことはない。
やがて馬車は公爵家に到着し、それぞれが自分の用事をこなすために散会した。
侍女がニコラスに手紙を渡すのをマリアンヌが見たのはたまたまで、ほんのりと嬉しそうな表情のニコラスがその場で開封して手紙を読んでいるのを離れた場所から見ていた。
(いいお手紙なのね)と微笑ましく思っていたが、ニコラスの顔つきがガラリと変わり、茫然とした様子で自分の部屋へと階段を上がって行った。
ニコラスはもう十四歳だし、精神的にはとても大人びている子だ。そのニコラスがあんな顔をするのはよほどのことである。
だからこそマリアンヌは(ニコラスから何か言われるまでは口を出すまい)と自分に言い聞かせた。
ご機嫌なステラの頬を撫でながら「おにいちゃまに何もないといいわねえ」と話しかけた。
「だう!」
「ステラ様はご機嫌ですね、奥様」
「この子はいつもご機嫌さんだわねえ。レイアの育て方が上手なのね」
「いえいえ、ステラ様のご気性ですわ」
そんな話をして、一度はニコラスのことを忘れた。だが夕食の時間になって食事室に現れたニコラスを見て、マリアンヌはぎょっとした。
普段から感情を表に出さず感情が安定しているニコラスが、(どうした!)と言いたくなるほど暗い顔つきだ。
その様子にはアレクサンドルも気づいたようで、食事が終わる頃に「ニコラス、ちょっといいか」と声をかけた。
ニコラスは「はい」と返事をしたものの上の空である。
マリアンヌも心配になって、一緒にアレクサンドルの書斎に入った。
「どうした? 養殖のことでなにがあったのか?」
「いえ、そちらは順調です。池にマスを入れて世話をしている段階ですが、病気もなく、マスは肥えて大きくなっているそうです」
「じゃあ、なぜ暗い顔をしているんだい?」
「それは……別に。個人的な事なので、言いたくありません。部屋に戻っていいですか? 調べ物をしたいので」
「あ、ああ。事業に何も問題がないならいいよ。元気がないように見えたから心配になっただけだ」
「では失礼します」
全身から黒い空気を出しているかのように見えるニコラスが書斎を出て行った。
「どうしたのかしら」
「ねえ、マリーはポーラという名前を聞いたことがあるかい?」
「あるわ。アンダル村でニコラスの秘書みたいな仕事をしていた娘さんよ」
「これはただの勘だけど、そのポーラのことじゃないかな」
「そういえば帰宅して早々に手紙を受け取った時は嬉しそうだったのに、手紙を読んだら茫然としていたわね。あの手紙はポーラからの報告の手紙かも。週に一度ずつ届いていたような」
「十四歳は多感な時期だからね。僕たちはドンと落ち着いて様子を見ることにしよう」
「そうね。私も同じ意見よ」
両親がそんな会話をしている頃、ニコラスはベッドに仰向けになって放心していた。
帰宅して受け取った手紙は、週に一度ずつ送られてくる養殖事業の報告書だった。いつもと違っていたのは、手紙の最後に書かれていた短い文章である。
『私の婚約者が王都から戻ってくることになりました。彼と二人でニコラス様の事業のお役に立てることを喜んでいます』
ニコラスの初めての恋は、始まる前に終わった。
「告白する前でよかった。ポーラにも婚約者にも迷惑をかけるところだった。なるほど。こんな気持ちになるんだな。今更だけど、あの子には悪いことをした。思い返すと、僕はとても嫌な奴だった」
久しぶりに思い出したのは、アンネガルドのことだ。
アンネガルドはハロルドの婚約者になるべくやってきたものの、ニコラスにひと目惚れをした。
その気がなかったニコラスは『君は僕の理想とは違う』という意味のことを言って断った。
「彼女はあの時、こんな気持ちだったんだな。もっと傷つけない言い方をするべきだった」
各国を見学して回った帰りに会ったアンネガルドは、傷つけたはずのニコラスと笑顔で話をしてくれた。大人の対応だったと思う。
「わざわざ手紙を書いて彼女にあの時のことを思い出させるのも無礼だな。会う予定は当分ないけど、また会うことがあったら謝ろう」
そう独り言を言ってうつぶせになり、ボスン! と布団に顔を埋めた。





